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2006年12月23日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム 記録

■山本紀久雄氏

「鉄舟という人物像」

 1853年から15年経った明治維新の時代についてお話します。鉄舟についてご説明申し上げますが、抹香臭い話しと思われると困るので、別の話しから。

小泉チルドレンが誕生したとき、初めて国会議員になった者たちを自民党は毎月1回教育した。どのように教育したかというと、職業が変わり、今後どういう気持ちで仕事をしなければならないかを『西郷南洲遺訓』より語った。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」これは西郷隆盛が鉄舟と会ったときに、こういう人間がいたのか!と驚いて書いた言葉。

小泉チルドレンに、なってほしい人物像として挙がったのが山岡鉄舟だった。鉄舟が今や最先端の人物であることを言いたかった。

鉄舟は、西郷隆盛から、江戸無血開城を決めた駿府での交渉を評価された。徳川家をつぶし、慶喜を殺すと戦争を仕掛けた西郷側に対し、幕府側の要求は、徳川家を残し、慶喜を生かしたい。
互いの要求の交渉に鉄舟が、西郷隆盛が出てきた。損得勘定と人間の感情がぶつかり合う交渉の中、人間の波動によって乗り越えられるかが交渉力。
西郷隆盛は鉄舟の言うことに納得して、徳川家を残したということは、感情が損得勘定を乗り越えたということ。

百俵二人扶持の下級武士である鉄舟が、将軍徳川慶喜から交渉の命令を受けた。当時、慶喜は江戸城を出ていた。大将が城を出ることは降服をしている意味だが、官軍は品川まで攻めて来ていた。官軍が居る中で、どのように交渉の地である駿府に入って行ったのか。鉄舟を助けた人物について、若杉氏からしていただきます。


【若杉昌敬氏より】
静岡県由比に薩埵峠というところがあり、そこに山岡鉄舟を官軍から助けた藤屋望嶽亭があり、現在松永さだよさんという方が守っている。

望嶽亭20代当主の松永七郎平と妻・かくさんが、鉄舟を匿い漁師の格好で逃がした。そのときに鉄舟が置いていったピストルというものが現存している。
フランス製の10連式ピストルで、フランスの鑑定書もある。

人斬り以蔵が持っていたピストルが坂本竜馬記念館に飾ってあった。勝海舟が持っていて、海舟からもらったと思われるフランス製のピストル。

望嶽亭にあるピストルは、ナポレオン三世からフランス公使ロッシュを経て徳川慶喜の手にわたった。謹慎している慶喜からの使者である証として鉄舟に渡されたのだろう。フランスの鑑定書があり、10連式、製造年1850年~1860年。作られた国がフランス。推定価格2000フラン。28センチ、900グラム。日銀で確認したところ明治34年の相場が1フラン0.394円。物価は当時から1418倍になっている。現在は111万7000円くらいの値段。
残っていた弾は危ないので、海に捨ててしまったそうだ。

 *  *  *  *  *  *  *  *   * (若杉氏の話、終了)

駿府に行って、西郷隆盛を説得したので、江戸の総攻撃はなく、無事明治維新が開いた。鉄舟は明治維新の基礎を作った人である。

剣の達人である鉄舟がピストルを持つ、ということに疑問を感じた。駿府で西郷隆盛にあったときは持っていなかった。
坂本竜馬もピストルを持っており、伏見の料亭で役人に囲まれたとき、刀とピストルで応戦した。鉄舟のピストルは竜馬のような護身用と同じピストルではないと思う。
薩長軍は徳川家を潰そうと思っていたが、慶喜が一瞬早く、政治権力を大政奉還してしまった。薩長軍は攻める理由がなくなってしまったので、戦略の建て直し考えていた。志士たちは、各地に飛ぶが、京都に岩倉具視を残した。そのとき大久保利通が京に残る岩倉具視に「動揺するな」の意味でピストルを渡した。
鉄舟の持つピストルは、慶喜が私の身代わりとして持って行ってほしいという意味で渡したピストルであると解釈した。
1. 幕末三舟が共通に目指したもの
幕末三舟=勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟
頭山満さんが『幕末三舟伝』という本を書いている。
勝海舟は軍艦、政治の中心、泥舟は槍の泥舟で有名。鉄舟は駿府に行くまで誰も知らなかった。

ロシアとの戦争に勝ち、日本を振り返ったときに、今一度困難を乗り切ったことを考えたときに反省とも確認とも思えるように研究をはじめた。
昭和3年、『戊辰物語』で三舟のことがかかれ、昭和5年に『幕末三舟伝』が書かれた。3人は何をしたかというと、徳川幕府は戦わないようにしようと言った。権力は持たず、自らの考え方を活動したこと。したがって、天皇を中心にした日本を作る意識だけだった。

フセイン政権が倒されたイラクは今、内戦状態。三舟が活躍しなかったらイラクのような危険がこの日本にもあったかもしれない。


2. 鉄舟を歴史の舞台に登場させたのは海舟か、泥舟か

アメリカが来航して、日本は外国から価値観の変更を余儀なくされた。
勝海舟、高橋泥舟のどちらが慶喜に推薦したか意見が分かれている。勝海舟と鉄舟は一度も会ったことがなかった。当時鉄舟は暴れん坊で、海舟を殺しにくるのではないか、と警戒されていた。警戒している人間を慶喜に推薦するはずがないことから海舟説には無理がある。

泥舟は慶喜の護衛頭であり、槍を持って護衛していた。泥舟の出身は、山岡家で、山岡家には兄が居たので、40俵の高橋家に養子に行った。泥舟は40俵でありながら破格の出世をした。
当時の組織は足高、有能は人間を引き上げよう、地位についたら、○○石という給料が役についている間にもらえる。
高橋泥舟は、槍と人格に優れており、慶喜が信頼していた泥舟が駿府への交渉役に鉄舟を推薦した。

3. 海舟に発した「臨機応変」

官軍が充満している中どうするか?と海舟に聞かれて、鉄舟は臨機応変にやると言った。鉄舟の言う「臨機応変」は、いいかげんな意味の「適当」ではない。
普通の人は前から計画するだろうが、それは網を張って鳥を取るようなもので、相手は用意しているので捕まる。作戦計画がないまま物事をやる、計画なくてもできる人間であるべきといっている。
33歳のときの発言だが、研究すると23歳のときに「心胆練磨之事」というメモ書きを残している。庭の草を食べつくすほどの貧乏の中でも、考えをメモし、それを紙に整理していた。その整理した中に、本当に肝が据わっているということは、変化に応じ決意してからやることはたいしたことではない。常に生きていることと死との間に、自分の思念を会得する。生と死は一つに帰着する、そのために修行していくと23歳のときに文章にしている。

その結果、勝海舟から訊かれたときに臨機応変にやると答えた。


4. 明治天皇の扶育係り

明治天皇は15歳で即位された。それまでは京都御所奥深く女官に囲まれて過ごされていた。外国はロシア帝国、イギリス帝国、フランスはナポレオン三世、プロイセンドイツなど植民地を狙う大国があった。少年明治天皇にはしっかりしていただかないと日本国は危ない。明治天皇を教育するための学問の先生も多数居た。しかし腹がなければ英語ができても仕方ない。西郷隆盛が鉄舟の教育係りになってほしい、と鉄舟に頼んだ。

明治天皇20歳から30歳までの10年間、剣・禅・書の達人鉄舟はどのように教育したのか。明治天皇とお酒を飲んで、そのときに鉄舟が語ることばが明治天皇に染み込んで行ったのではないか。

5. 武士道完成までの系譜

「宇宙と人間」
安政5年、「宇宙」という言葉を武士が思いつくだろうか。図では天皇の下の公家・武士・僧侶・学者・農工商の層が同列で並んでいる。
天皇・幕府が居て、幕府の下に大名が居る封建社会の時代に、天皇の下の層は、全員公平である、と描いている。外国にも行ったことがないのに、民主主義的根幹思想を持っている。

15歳のときに「修身二十則」
23歳のときに「心胆練磨之事」「宇宙と人間」
24歳のときに「武士道」

明治天皇の写真(絵)を見比べると、素晴らしい人物に成長している。鉄舟が明治天皇を素晴らしい人物に育てた。

新渡戸稲造が『武士道』という本で、日本人の持っている精神を紹介した。誤解されないように英文で発表し、それは日本語に訳された。新渡戸稲造は侍ではない。鉄舟は侍。近々新渡戸稲造と鉄舟の武士道の違いを表にしてお渡したい。

泥舟は明治維新を機に、官職を断り世に出なかった。江戸時代まったく無名だった鉄舟は、明治維新を機に世に出てきた。

山岡鉄舟の武士道についてお伝えしていきたい。

一般的に考えられている考え方には3つのノウハウがあり、プラス思考、夢を明確にしてイメージする、ギブアップしないこと。

そういう手段や方法を超えたところに鉄舟が居た。

世界は矛盾である、普通はその矛盾をあきらめる。社会の矛盾を飲み込むのではなく、突き抜ける、矛盾に入り向こう側に行く。

鉄舟は我々とは別の境地に立っている。どうしてその境地に成れたかという解明はまだまだ続く。この研究成果を来年もお話したい。

来年は山岡鉄舟の武士道を世界に発表していきたいと思っている。

以上

投稿者 staff : 2006年12月23日 12:05

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