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2007年11月03日

「鉄舟を世に躍らせた運と縁」1/2 第4回全国フォーラム記録

2007年10月6日 第4回 山岡鉄舟全国フォーラム2007 
会場 中央大学 駿河台記念館

「鉄舟を世に躍らせた運と縁」
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

 今の世の中というものは、大変な時代でございます。8月に突如出たアメリカのサブプライムローンの問題。融資受けられない人が受けられた融資が、アメリカからヨーロッパに波及し、日本の株が下がった。
これを経済学者・経済アナリストが事前に予測していたか?知る限り予測はできなかった。二人いらっしゃいまして大和証券の野間口さんは、サブプライムローンの残高が1割くらいだからたいしたことないと言っていた。日本総研の湯元さんも同じようなことをいっている。この湯元さんは今度の福田内閣で内閣府の審議官・政策担当に就任、日本に優秀とされているアナリストです。信用できませんね。
経済の予測は信用できない。天気予報は3日狂うと気象庁にクレームの電話が来るが、経済予測は間違っても絶対訴えられません。

天気予報は過去の気象情報を蓄積することにより、かなりの精度で当たる。経済予測がどうして狂うかというと人間が関与しているからです。気まぐれな人間の集大成が経済になるわけですから、当たりっこないです。たまに当たっても偶然です。でも偶然の気まぐれが世中を動かしていく。正体不明の巨大「ぬえ」が世の中です。
しかし我々はその中で生きていかなくてはならない。そこにターニングポイントがあります。経済が、社会がどうなろうと、一人一人が生きていかなくてはならない。そこに我々の生き方の研究課題がある。サブプライムローンが発生しても自分はしっかりしなければならない。そのためには勉強しなくてはならない。
鉄舟は激動の時代に、行動した原点がぶれなかった人物。自分がぶれないために今この時代に指針として、鉄舟の行動を探りながら、鉄舟から学ぶ。武士道精神の奥にある、ぶれないものを解明していきたいと毎月鉄舟研究会を開催している。

1.山岡鉄舟とは  
 天保7年 (1836)生れる 父は旗本六百石 小野朝右衛門
 天保は享保・天明と並ぶ三大飢饉の一つ。お蔵奉行の家に生まれる。役職手当がついて八百石の家柄の良い旗本。10歳の時に父親が飛騨高山の代官に赴任した。当時全国63箇所の郡代があり、その中でも飛騨高山は大きいほうだった。1万石以上が大名だったので11万4000石の飛騨高山を任されたのですから、それは立派な侍だった。朝右衛門の代官就任は72歳。江戸時代は定年制がなく、実力主義、生涯現役です。79歳で亡くなるまで働いた。
  安政2年 (1855)20歳 山岡静山逝去 山岡英子と結婚山岡姓へ
当時でも20歳で結婚するのは早いと思う。町方の男性は自分で稼げるようになってから結婚するため結婚の平均的な年齢は20代半ば過ぎだった。のれん分けをして商売を始める人は30歳・40歳だった。武家の場合は跡継ぎなどもあるので平均年齢は出ない。
鉄舟は当時剣の修行で燃えていたし、遺産でお金も十分持っていたので好きなことに徹底できた。この時期結婚する気はなかったと思う。なぜ結婚したかは英子さんに惚れられたからです。
鉄舟は山岡静山に槍で負け、私淑していた。しかし1年も経たないうちに山岡静山が亡くなった。英子さんは養子婿をもらうとき鉄舟を望んだ。これが鉄舟の縁です。

  明治元年 (1868)33歳 西郷との会談にて江戸無血開城を決める
  明治5年 (1872)37歳 明治天皇の侍従となる
明治天皇は16歳で即位された。それまでは京都御所で女官に育てられた。明治時代になって諸外国の一流国は帝国主義。その君主と伍していかなければならない。西郷隆盛は明治天皇20歳のときに鉄舟に人間としての教育を託した。
何の教育をしたかは書かれていない。『明治天皇記』によると明治天皇が鉄舟と酒を飲んだ話が書いてある。明治天皇は大酒飲みだった。鉄舟とは気が合うから酒を一緒に飲んだのでしょう。鉄舟が人間教育をし、明治天皇はすばらしい君主になられた。

駿府会談の石碑が静岡市にあります。地元の原田さんという方が声を掛けて作られた。石碑には「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と記されている。
なぜ鉄舟は駿府に行かなければならなかったか。慶応4年の正月に薩長軍と幕府軍がぶつかった。薩長軍が勝ち、慶喜は江戸に逃げ帰ります。江戸城での大評定で小栗上野介は主戦論を唱える。慶喜は一旦主戦論をのみますが、その後、攻めてくる薩長軍に恭順の意を表して戦うべからずと恭順論を取ります。
慶喜は品川まで来ている薩長軍に恭順の意を伝えるため交渉人を送ります。交渉するときに知っている人か縁のある人に頼む。孝明天皇の妹・和宮である静寛院宮、島津家と関係のある天璋院篤姫(13代将軍家定の奥さん)、上野の輪王寺宮公現親王に頼むが交渉はうまくいかない。誰かいないかと考えて、護衛頭の高橋泥舟に相談する。高橋泥舟は山岡静山の弟、鉄舟の妻・英子さんのお兄さん。泥舟に交渉をと考えるが、しかし彼が慶喜の傍を離れては、抑える人がいない。そこで泥舟は義理の弟・鉄舟を推薦した。「縁」だった。     
 鉄舟は駿府に行って、話がついて江戸の無血開城がなされた。これは鉄舟のいくつかの業績の中のひとつです。

2.日本が海から迎えた国家危機
当時日本はどうだったか、世界史的に明治維新を考えたい。
今は空から危機が来るが、当時危機は海からでした。

①モンゴル襲来 文永の役(1274) 弘安の役(1281)
モンゴルは世界を制した。残されたのが日本。高麗軍を徴集して攻めてきた。どちらも風が吹いて助かった。海からの日本の国難1回目です。

②大航海時代  天文12年(1543)ポルトガル種子島
           天文18年(1549)ザビエル鹿児島
           天正15年(1587)秀吉バテレン追放
15~17世紀の大航海時代。コロンブスがインド洋の大陸に着いて、スペインとポルトガルが世界はたくさんあることに気づいてから争って船で世界に出始めた。しかし超大国はスペインとポルトガルは行く先々でつばぜり合いを始める。ローマ皇帝が調停に入り、協定を結んだ。地球を2つにして、大西洋の中央の子午線で線を引いて、片方はスペイン領でもう片方はポルトガル領とした。人が住んでいるのに勝手に決めた。これが大航海時代。トリデシャス条約です。
ポルトガル人が種子島に来た。日本では鉄砲伝来ですが、向こうからだと日本発見となる。
ザビエルはスペイン人です。キリスト教伝来に来たが、キリスト教と同時に来た南蛮渡来の文明品に目がくらむ。外国からの品を手に入れれば他の大名との戦いに勝てるのではないかと大名は考えた。大名からキリスト教にしていこうという戦略が採られた。大名がキリスト教になれば、その藩はキリスト教になる。キリスト教は広がっていきザビエルが来てから50年でキリスト教の人口は75万人になった。日本の人口1500万人のうちの3%です。脅威です。
キリスト教はどんなことをしたかというと、キリシタンに入ることを強制、神仏・お寺をどかしなさいと言い、多くの日本人を買い入れて奴隷として外国に連れて行った。50万人くらい連れていかれた。拉致です。豊臣秀吉はすぐに戻しなさいといったが返さないからバテレン禁止令を出した。キリスト教禁止令、バテレン追放令が鎖国に結びついた。

③明治維新   嘉永6年 (1853)ペリー来航
           安政1年 (1854)ペリー再来航
           慶応4年 (1868)鳥羽・伏見の戦い
ペリー来航よりも前に外国船は来航していたが、ペリーは追い返されないような策を持ってきた。ペリー来航15年間で日本は明治になった。この15年という期間を長いと考えるか。それとも短いと考えるか。
バブル後の修復は、1991年バブル崩壊から15年かかった。崩壊後の経済政策が誤りです。ベルリンの壁が壊れ共産主義がなくなり、安い労働力が世界に入り、バブルが崩壊。どこの国もバブルが崩壊した。どんどんお金を使えば良いという対策で日本は財政投入した。
明治維新は卵が割れた(ペリーが来航した)、撹拌された(国内政治の混乱)、そして固まった(幕府が鳥羽伏見の戦いで破れて、国内の中がひとつになった)。鎖国・開国・江戸幕府崩壊・新政府をたった15年でできたのは凄いこと。封建制度、鎖国の国がたった15年で変わった。
バブル崩壊後その修復に15年掛かっている。その傷をまだ負っている。今の政治は、我々も含めて問題です。

投稿者 staff : 2007年11月03日 12:07

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