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2007年11月03日

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」3/4 第4回全国フォーラム記録

山岡鉄舟と次郎長、禅とのかかわり・剣
浅利又七郎義明と戦って、木刀で戦いあうと手も足も出ない。明治13年3月25日、昼間やった剣の構えのことを考えているうちに無心の境地に入り、29日に目を覚ましてみると、木刀を構えると雲のような浅利の姿が見えた。無敵の境地を得たということで、弟子の籠手田安定と剣を併せると、立っていられないという。無敵の境地を得たかと浅利を呼んで剣を合わせたところ境地を得られたと免許皆伝された。


免許皆伝書(クリックして拡大)

鉄舟が禅の印可を与えられたとき、滴水は江川鉄心にビールを出すように言った。一ダースを飲んで、次の半ダースも飲んだので、胃が少し悪いからやめなさいと言ったら帰った。滴水はその威風堂々たる鉄舟の様子を見て、あのくらいの悟りを開きたいと考えたと有名な言葉も今も残している。

小倉鉄樹さんが、師匠が稽古場に出てくると口も利かずに座っているだけだが、居る人はすばらしく元気になってしまう。頭が空虚になり、颯爽とし、英気にあふれるばかりである。あまり気分が良くて帰らず、はなはだしいのは夜中の2時3時までいる。師匠と話していると苦も何もすっかり忘れてしまうので帰るのも忘れてしまうと書いている。
無学祖元、中国に行ったときに賊に刀で首を切られそうになったとき詩を詠んだところ斬られなかった。その詩の中にある「春風を切る」というところから、春風館というのが出たんですね。
鉄舟の傍にいると身動きができなくなってしまうという。ものすごく強く行こうとすると相手も強くなる、こちらがゆったりすると相手が動く。
私も尊敬する人がいますが、大体において優れた人はゆったりしている。鉄舟は鋭くいかなくて、ゆるやかに行くと相手の気を覆うから不思議だと言っている。
鉄舟も次郎長の剣は奥義に通じている、剣もたいしたものだと言っている。次郎長が剣の抜き方で相手が上だとわかったら逃げる。だから負けたことがないというと、鉄舟は截相のときに相手を見抜く度胸が偉いといたく感嘆した。
気合は命がけだから、互いに構えて、こっちがじっと待っていると相手が斬ってくるから、それを斬る。

天田愚庵


天田愚庵(クリックして拡大)

次郎長の養子の天田愚庵は、次郎長のことを日本国中に残した。天田愚庵は、安政元年(1854年)福島県磐前(いわさき)郡今新田村に生まれた。官軍が攻めてくるときに磐城は奥州路の入り口だったために官軍をここで食い止めようと、多くの奥州同盟の列藩は兵を平城に送った。五郎も若かったが戦争に参加、しかし、平城は落城、会津も落ちたので仙台に逃げた。国に帰ると家はあったが両親も妹もいない。血の跡もない、周囲の人に聞いても知らないという、しばらく逃げたか、親戚の家か、と一生懸命探したが見つからない。妹は官軍に売られて遊郭にいるんじゃないかと考えた。
明治二年に藩校が改められ、中学になったので入学、同僚が東京に出たので東京に行く。父母、妹を何とか探し出したいとし、神学校に進んだが、政府の大書記であった小池詳敬の家に寄宿、そこで落合直亮と山岡鉄舟に会う。
落合は官軍の先鋒体の赤報隊に参加した。その隊長はやはり国学者の相良総三であった。相良は西郷と仲が良く、薩摩藩の藩邸を焼き討ちし、幕府を戦争に巻き込むことに成功した。慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜を追うために、東海道、東山道、北陸道の3ルートで江戸に向かう軍が編成された。
相良らは1月12日に京都で、錦の御旗を使うことと年貢半減の建白をして認められた。岐阜に着くと、朝廷は年貢半減の撤回を相良に伝えたが、命令を無視、1月29日に中仙道を通って江戸に向かう。下諏訪宿に着き、年貢の問題などの論議のために大垣に向かう。総督府は相良を抹殺することを決断。下諏訪宿に呼び出され、即刻逮捕、田んぼで打ち首になった。年貢半減なんて嘘だった。
落合直亮はその後伊那知事になったりしたが、冤罪で失脚、不遇な晩年を送った。鉄舟も幕臣の多く、とくに彰義隊の参加者が迫害され、妻子を遊女にしたり、本人は寄席の木戸銭取りに落魄しているのに、鉄舟のみが政府の一員として高給を取り、しかも天皇の侍従もやっていることに悩んでいた。そのような時に、戊辰の戦争の生き別れになった両親、妹を探すために、日本国中を歩き回っていた五郎の純情さは心打たれるものであった。

直亮も政府側の味方をするつもりが裏切られた。そういうことを考えずにあくまでもそのときの幕臣側について、妹と両親を探すために日本国中を歩いた。
明治10年に小池祥敬が死去、家族を京都に送る時に清水に泊まり次郎長に会う。鉄舟は五郎を一箇所に留めるために次郎長に託そうとする。明治11年明治天皇の関西行幸の帰りに静岡の旅館で次郎長と五郎を会わせ、清水に住まわせる。天田五郎には次郎長と一緒に住むうちは見たことも聞いたこともないような集団だった。これを水滸伝のような小説にしようと、次郎長から話を聞いて小説を作った。
次郎長は離れられないと言ったが、負けず嫌いな五郎はこっそり家を出て安倍川を越えた。すると人が現れて「五郎さん、次郎長親分がお宅で待っていらっしゃいますからお帰りください」と連れて帰られた。次郎長は、黙って家を出て安倍川と富士川を越えることができたらおれは親分を辞めるよ、といった。五郎は夜中に黙って出かけたのに何で解ったのかと不思議だったが、次郎長は、五郎が家を出ることを予め察知していて、もし五郎が家を出て行った場合は、行き先をつけるように言っていた。その後、五郎は次郎長の許可を得ずして、清水を出ることはなかった。

富士開墾に終始し、健康を害す。明治14年3月、両親と妹を探したいといって、次郎長の養子になる。ところが、自由民権運動が侠客と結びついて始まった。侠客は唯一弾薬・武器を持っている。次郎長が暴動を起こしたら大変だと、17年2月「賭博犯処分規則」で次郎長逮捕。当時は牢に入れられると病気だったと、裁判も何もなく闇夜に葬られるということがあった。鉄舟はそれを心配していた。
このころ五郎は有栖川宮への就職が進んでいた。侠客の息子ということで、ダメになるかもしれないから離脱したかった。鉄舟は一度といえども父親になったのに新しい職を選ぶために親子だったのに籍抜くことがあるかと五郎を何度も諌めた。五郎は鉄舟のことを「四谷の山の字」と呼んでいた。

投稿者 staff : 2007年11月03日 13:30

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