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2007年11月03日

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」1/4 第4回全国フォーラム記録

2007年10月6日 第4回 山岡鉄舟全国フォーラム2007 
会場 中央大学 駿河台記念館

 「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」
浜松医科大学名誉教授 高田明和氏

皆さんこんにちは。こんな立派な会にお呼びいただいて本当にありがたく思っております。山岡鉄舟に関しては、微にいり、細をうがちて、知っておられるかと思いました。いまさら本で読んだことを付け加えても、なんらの意味もないと思いまして、ご紹介に預かりましたように鉄舟の人生の中でもかなり重要な役割を担った清水次郎長とその養子である天田愚庵を介して、山岡鉄舟はどういう人物で、明治維新にどのような役割をしたか、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

2年くらい前までは、清水次郎長に関係があるということは全く誰にもいいませんでした。私のいとこの子供に諸田玲子という作家がおり、読売新聞の夕刊に連載しており、その前は日経新聞の夕刊に『奸婦にあらず』という小説を連載して、新田次郎賞をもらっています。彼女がメインのテーマにしているのが清水次郎長の子分の大政や森の石松、お蝶さんらです。ところが我々関係しているものから見ると、よくもまぁこんなでたらめなことがいえるというくらいいい加減なことが書いてあります。何とかしないとこの話が歴史になってしまうというので、ついに2年くらい前にそのことを話しました。
たまたまNHKが深夜便で2回に渡って話しました。大変好評で、春秋社から『人生に定年はない』を出版させていただきました。

もう一つこのことを書こうと思ったのは、明治維新における人間関係の緊密さですね。医者ですからカウンセリングもするのですが、50歳くらいの兄弟はどこの家でも若貴に代表されるように兄弟の仲が悪い。だいたい、どっちかが偉くなっているから揉め事が起きます。あるとき浜松に居たときに大学の教授で、弟さんが地元で大きい事業を継いで大成功したという方がおり、一緒に酒を飲みに行くと、いじめられたときにオレが救ってやったのに、とはいて捨てるようにいうわけです。弟さんも兄貴にも世話になったと思うが、そこに「いつまで昔のことを言っているんですか」とお嫁さんが入ってくると、だいたい若貴の関係になってしまう。

山岡鉄舟は、明治になってからオーバーにいうと新政府側についた。当時の幕臣は惨憺たる人生を送っていたわけですね。鉄舟はそれを非常に気にかけて、旧幕臣が立ち上がって上野に彰義隊を作って立てこもったときに、もはや趨勢は決まったのだから反旗を翻してもだめだと収めようとした。
5月に西郷隆盛が勝海舟に、「勝さん上野で進軍します。山岡さんが夜も寝ずに是を収めようとしたこと思うと、気の毒でならない」といって、勝海舟が書いたところによると、西郷隆盛はほろりと涙をこぼした、とあるんですね。

明治になって、上野の山に西郷隆盛の銅像を作ることになりその除幕式に勝海舟は呼ばれた。年を取っていて出席することはできなかったが、代わりに和歌を送った。
「君あらば語らむ事のおおかまし南無阿弥陀仏我も老いたり」
(君が生きていれば、あのことも話したい、このことも話したい。話したいことはいっぱいあるんだ)この歌ほど人間関係の本質を示した歌はない。

旧藩士が西南戦争を起こして、大久保利通は収めるために軍を送って、ついに西郷隆盛を追い詰めて城山で自刃させた。弟の西郷従道が「兄貴の西郷隆盛が捕まったりしたら大変ことになる、兄貴は死ぬだろうな」と何度も念を押したという。
西郷隆盛は自刃したわけですが、薩摩藩士はこれを恨んで、大久保利通が出勤するときに紀尾井坂、今のニューオータニを通っているところに切りかかって暗殺した。
明治維新になって新政府ができたとき、大久保や木戸孝允や福沢諭吉は外国視察に行った。その間、西郷隆盛が留守番しており何枚もその当時の東京の状況を、大久保に手紙で送っている。襲われたときに大久保が読んでいたのが、西郷隆盛が大久保外遊中に送った手紙だったわけですね。海音寺潮五郎がこのことを書いている。明治が隆盛だったわけである。

実は昨日も静岡県の御前崎で静岡県仏教婦人の会で講演していました。
妙心寺、曹洞宗などいろんなお坊さんの会に呼ばれるようになった。あるとき四国のお坊さんの会に呼ばれましたら、そのあと檀家の悩みにどう答えるか、という会がありまして、それにコメントを頼まれ出席しました。
あるお坊さんは、自分の檀家には癌の末期で苦しんでいる人がいる。自分の子供が少しでも自立できるまで何とか生きたいといっている。この方に般若心境を唱えようと言っているとおっしゃった。
また別のお坊さんは、自分の檀家の息子さんは東京に出たがお母さんが年取ってきたので息子さんはお母さんを引き取った。しかしうまくいかない。いつも電話で愚痴を言っている。自分は般若心境を唱えようと言っている。

今の時代、般若心経を聞いて悩みがなくなるような方はおられないのではないか。
2500年前にお釈迦さんが亡くなったときに、こういうことをおっしゃった、このように指導されたということをお弟子さんが検討されて仏典ができ、多くの口伝ができた。

7世紀に玄奘三蔵がインドから中国に運んで、漢文に訳し『大般若経』600巻という膨大な教典ができた。ご存知のすべての経はこの中に含まれている。こんなたくさんの経をみんな読むことはできないだろうということで、そのエッセンスをまとめて262文字にしたものが般若心経です。
湯川秀樹先生は、現在の物理学的からみても全く間違いがない、つまりお釈迦さんがいかに宇宙の本質を見抜いておられたかががわかるという。
 経の終わりの1/4が呪文を唱えましょうという内容。「是大神呪」は偉大なる神秘的な呪文を、「是大明呪」たえなる偉大なる呪文、「是大上呪」比類なき呪文、その次にこの呪文はよくすべての苦を除くという言葉があって、「羯帝羯帝」という呪文が始まる。真言の神秘性を失わないために訳さないことになっているが、無理に訳すと「我々はみな釈尊と同じ永遠に続く心の持ち主だ」と山田無文老師は言っている。
般若心経がすべての苦しみを除く呪文だと思って唱えるのと、何が何だか解らない経と思って唱えるのでは雲泥の差があるのではないか、と思い本を書いた。

もうひとつ同じような経に観音経があって、観音経は、火にあたっても焼けず、水に放り出されても溺れず、悪人が刀を振り上げても、その刀がばらばらになってしまうとある。白隠禅師はこれを心から信じて、1週間夜も寝ずに「南無観世音菩薩」と唱え、ちょうど1週間目に焼火箸を腿に当てた。しかし見るも無残に焼け爛れた。修行が足りないと修行に出たけれども、途中でいろんなことがあって、あんなものは嘘だ、禅をやって心を磨かなければダメだ、と禅に入られた。
晩年に『観音経霊験記』を書かれた。中には京都の○○町に住む○○さんは、病気で死にそうになって意識がなくなってしまったが、みんなで一生懸命観音経唱えたら、意識が戻ってきてぴんぴんして今は生きている。奈良の○○町の○○さんは商売で破産して一文なしになったが、観音経唱えたらみんなで助けてくれてすっかり商売がうまくいった、などと嘘みたいなことが書かれている。
当時白隠禅師がおられた沼津・原のではお百姓さんは、字も書けず、読めない。そういう人に、座禅をしろ、釈尊の教えはなんだ、といっても解らない。そういうときに「南無観世音」と唱えればお前の病気は必ず直る、と言ったその言葉の中に白隠禅師の限りない慈悲を感じて、『念ずれば夢かなう』という本を書かせていただいた。

今日は、次郎長と山岡鉄舟の話をさせていただきます。

投稿者 staff : 2007年11月03日 13:36

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