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2007年11月03日

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」2/4 第4回全国フォーラム記録

清水次郎長と高田家


次郎長・高田家家系図(クリックして拡大)

高田元吉は侍で、剣道をやっていたがそれだけでは食べて行けないと畳屋をやっていた。清水町の回送問屋高木三右衛門の次男に長五郎(次郎長)が生まれた。長女のとりが山本次郎右衛門と結婚して、そこへ次郎長が養子になっていった。長男佐十郎の娘・まつが、辻村の畳屋高田元吉と結婚して、次郎長の養子になった。
この元吉とまつの子供の次男・虎次郎の長男が高田璋一で、璋一の長男が私・明和です。璋一のお姉さんが静岡のお菓子屋にお嫁にいって、そこの孫が先ほどの諸田玲子です。祖母は昭和34年まで生きた。晩年は次郎長のことを私に伝えるのが唯一の使命と、いろんなことを伝えてくれて、私は今日ここに来ております。

清水次郎長と山岡鉄舟
鉄舟と次郎長はどこであったのか?望嶽亭の事件と言われるものはあったのか?鉄舟と次郎長が会った咸臨丸事件はどうして起こったのか?鉄舟は幕臣で旗本なのに、なんで侠客の親分である次郎長にあんなに肩入れしたのか?新門辰五郎など江戸には数限りなく立派な親分衆がいるのに、オーバーに言うと駿河の田舎にいる清水次郎長にあれほど肩入れしたのはなぜか。
鉄舟は、明治政府に入ってから静岡県の県令、茨城県の県知事、明治5年から15年まで明治天皇の侍従になった。新政府方につきました。それをよからぬと思った人はいたわけですね。鉄舟も幕臣の苦労を非常に気にしていた。


清水次郎長(左)/山岡鉄舟(右)(クリックして拡大)

当時いかに幕臣が苦労したか。上野に閉じこもった彰義隊が皆殺しにされるようなありさまだった。上野で360人くらいが死んだが怖がって片付ける人がいない。それで火をつけて焼いたが、焼けないので穴を掘って生めた。上野に閉じこもった彰義隊の連中が皆殺しになるところを、根岸のところだけ空けておいた。そこから逃れ、奥州道、中仙道へと向かい、ばらばらになって出てきたところを、待ち構えて皆殺しにしてしまった。実に悲惨な運命になったと子母沢寛が書いている。生き残った多くの幕臣は生活に困り何とかして生きるために太鼓持ちになったり、寄席の呼び込みをやったり、乞食をやったり、女子供はみんな遊郭に売られてしまった。
天田愚庵は、戊辰の戦で生き別れになった妹が遊郭に売られているのではないかと日本国中探して歩いた。妹を探すために顔が広い次郎長の養子になった。
あるところから藤沢の遊郭に品があり、おまえに非常によく似ている女がいる。どうやら身辺いやしからぬ侍の娘らしい、と連絡を受けて愚庵は会いにいった。彼女を訪ねると、彼女の父も兄も彰義隊の一員で、生活に困り娘を売ったのであった。二人はお互いの境遇を語り合い、悲運を思って共に抱き合って泣いたと天田五郎は大岡育造への手紙に書いている。
あの純情な鉄舟が、この話を知って平然としていられると思えない。それと同時に一種の嫉妬にも似たような非難を受けている。鉄舟があそこまで、剣と禅に打ち込んだ中には自分のみ恵まれてという慙愧の気持ちを振り払おうと思ったのではないか。


維新後の次郎長
次郎長は咸臨丸の事件で清水港に浮いている榎本の幕府の兵士を丁重に葬った。咸臨丸に乗っている連中が三保神社に逃げ込もうとしたが当時の神主が追い出した。それを恨んだ旧幕臣は、焼き討ちをかけようと三保神社を襲って大田神主は殺されます。このとき次郎長は身を挺して守った。それを恨んだ駿府に居た旧幕臣が次郎長を殺してしまえと、ある日次郎長の家に斬り込みに行ったときに、二代目お蝶が殺されてしまった。次郎長には新政府も旧幕臣も当てにならないという状態があった。
当時、侠客は力を持っていたので、侠客を中心に暴動が起こるのではないかと新政府は気にしていた。黒川辰三も官軍の味方をして東北まで進軍して東京に戻ってきた。お褒めの言葉を貰おうと思っていたが逮捕、処刑されてしまった。岐阜の弥太郎も、岐阜までに行く間「年貢半減」と言ったものだから殺された。次郎長も勢力が大きかったので、政府は常に身辺を探っていた。このような危険な時期に鉄舟のような政府側の大物の存在が次郎長にとって唯一頼りになる存在だった。

もともと江戸時代、刑法はしっかりしていたが、民法は甚だいい加減だった。敷地、遺産相続は長男が決めて、決まらなければ顔役が出てきて、それでも決まらなければ侠客が出てくる。明治に入り刑法・民法が出来ると実質的に侠客の力が不要になった。鉄舟は咸臨丸の事件で次郎長にあったときに、今までのような時代ではない、社会に貢献することが必要である、とくに心を磨けと禅にいそしむことを教えて、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)という高僧の話をした。
周樗は江戸中期、円覚寺の山門建立を祈願して、寄付を募ったところ当時の豪商・白木屋が、100両寄進しましょうといった。ところが周樗は「あぁそうか」と言っただけで礼も言わないので、白木屋もさすがにムッと来て「100両は我々にも大金でございます。少しはお礼を言ってくださっても良いのではないでしょうか」と述べると周樗は怪訝な顔をして「おまえが功徳を積んで、家の商売が代々繁盛して、病人が出ないようになるのに、何でわしが礼を言わなきゃならないのだ」と答えた。
次郎長は「一生の間にこれほど自分にとって大きい影響を与えた言葉はない」といっていたそうです。鉄舟は、この世の中に人のためなんかないのだ、すべては結果自分に戻ってくるんだということを口癖のように言っていたと小倉鉄樹が書いている。

徳川慶喜が寛永寺にきて、そのときの警護隊長高橋泥舟の妹と結婚していた鉄舟が推挙され、将軍の元に呼ばれる。
慶喜の頼みに、「鉄太郎がお引き受けしたからには、私の眼の黒いうちは決してご心配には及びません」と。
頭山満は「幕末三舟伝」の中で、「何でも話に聞くと、鉄舟はこの時、死ぬか生きるかわからぬ、一寸先は闇だというのに、家に帰って旅支度もそこそこ、サラサラと茶漬けをかっこんで出かけたそうだ。なあに、品川沖へ釣りにでもゆくような気軽さだったと見える」と書いている。
品川を越えると官軍の先鋒隊がいたわけでしょう。たくさんの官軍の中を突き進むのに、ピストルひとつ持っていても何の意味もないと思う。剣の達人であった鉄舟がピストルを必要と考え、携帯したとは考えられないと思っております。


望嶽亭に伝わるピストル(クリックして拡大)

望嶽亭事件
鉄舟が慶応4年3月7、8日にどこにいたかは不明である。7日に怪我して由比の倉沢の望嶽亭にいて、その夜に舟で次郎長宅に行き、8日は静養、9日に久能街道を通って駿府に入ったとされる。
次郎長が、政治に関与するようになり街道の秩序の維持を浜松藩の伏谷如水から依頼されたのは明治元年4月のことで、望嶽亭の事件は3月である。当時次郎長は由比では知られていたが、舟で鉄舟を迎え入れ、道案内するほど政治に関与していなかった。鉄舟の手記「両雄会心録」にはこのことは書いてない。あれほど几帳面で義理堅い鉄舟がこれだけの恩を受けて、全く記載をしないのは考えられない。次郎長は明治になり初めて鉄舟に会ったと祖母は常に言っていた。
鉄舟は剣を一生懸命にやった。裸になって御用聞きに「どこからでも掛かって来い」と竹刀を渡す。御用聞きが掛かっていって鉄舟が受け損なうと、もう一回と何度もやらせ、いつまで経っても終わらないものだから、段々御用聞きも来なくなったという。
これを次郎長が聞いて、鉄舟という人はちょっと違うお侍さんだと私の祖父の虎次郎に言っている。当時侠客は必ず用心棒として、免許皆伝なんて人をたくさん雇った。ところが両方が戦い出すと、剣豪と称する人は、手もなくやくざにやられる。竹刀の剣道なんて役に立たないという鉄舟の話を聞いて、このお侍さんは少し違うと思ったのが、次郎長が鉄舟に興味を持った最初だ、と祖母が繰り返し語っておりました。

榎本武揚が8艘くらい軍艦を集めて、函館に新しい政府を作ろうと向かった。途中松島沖で台風にあい、咸臨丸だけが流されて清水港に入った。政府軍は咸臨丸に切り込みをかけて乗組員を全員惨殺した。死体が港に浮かんだが誰も触れなかったのを、次郎長が手下を集めて丁重に葬った。当時慶喜が駿府に来て、鉄舟も海舟も何かの役割で駿府にいてその話をきいた。せっかく世の中が収まりそうなときに幕府の連中の死体を葬ったりするようなことをして新政府軍から恨まれたら困る。静岡の地方判事で松岡万という鉄舟のお弟子さんは、鉄舟に次郎長に会うことを薦め、次郎長にあった。
次郎長が、“死んだらみな仏さんだ敵味方はない”と言い、鉄舟はそれに感激して、次郎長はお咎めなしになったという有名な話がある。


咸臨丸(クリックして拡大)

大森曹玄は日本の武道の最後の剣道家は、山岡鉄舟と榊原鍵吉だと言う。榊原鍵吉は男谷精一郎の一番弟子で、道場を持っていて、剣道一筋で有名だった。榊原鍵吉の一番弟子が榎本武揚、二番弟子大塚霍之丞。有名な千葉周作は何回も男谷と試合したが敵わなかった。あれだけ剣を使うには粉骨砕身努力しただろうという言葉が伝わるくらい男谷は名人だった。
榎本が函館に行って負けて、自刃しようと思って、短刀を抜いた時に止めようとして、大塚霍之丞が刃を掴んだ。無理やりに榎本が刀を引いたから、指が三本切れて鮮血が流れ、榎本がハッとしたところを取り押さえ、刀を取って、榎本の自刃を止めた。
怪我をした者は病院に入り、榎本は、自分は後から行くからと全員に花と毒薬を送ったが、結局死なず、明治41年榎本は73歳まで生き、壮士の墓に葬られた。
鉄舟が次郎長に「生無一日歓 死有万生」 (生きて一日の歓びなく、死して万世の名あり)名をとどめることが大事と詠んでいる。


壮士の墓(クリックして拡大)

鉄舟は次郎長に社会事業のようなことをやらせる。一番有名なのは、富士山の開墾。元々幕臣は牧の原にお茶畑を作り成功した。次郎長は、富士山麓にお茶畑をつくろうとしたが、気候が悪くて大失敗だった。
静岡県になってからの最初の県令、大迫貞清は鉄舟と親しかったので、佐田清が報告のために「皇国の為にと開け駿河なる 富士の荒野のあらぬかぎりは」という歌も詠んでいる。
次郎長町という町名や、駅も出来、バス停もある。明治29年開墾記念碑を作った。英語学校はあまり長くは続かなかったが卓見だったと言われている。

   

明治26年、次郎長48歳のときに鉄舟寺をつくる。建立のために募金を集めた。なぜ鉄舟寺作ろうと思ったかが面白い。私の卒業した高校の卒業生で鉄舟寺の隣に住んでいるものがおり、私にそのことがわかる鉄舟の書をくれた。
弘法大師が西安に留学し、帰りがけに自分の持っている数珠を放り投げて、落ちたところにお寺を作ろうと祈願された。日本に戻られて四国を歩いていたら木の上に数珠が掛かった。そこにお寺を作った。四国八十八ヶ所のひとつになっている。   
それと同じように寺を作った。各村に仏教の雲を生んでくれることを願う、ということです。なかなか良い字だと思う。非常に立体的ですね。立体的なところが現れている点では良い字ではないかと思います。


鉄舟の書(クリックして拡大)

次郎長が清水に末広という旅館を始めたことをきっかけに当時の海軍軍人が
次郎長を訪ねるようになった。広瀬武夫は次郎長を訪ねいろいろ話をしているうちに非常に次郎長を尊敬するようになった。士官学校の同級生で、後に中将になった小笠原長生に次郎長を紹介した。小笠原は後に次郎長の伝記「大豪清水次郎長」を著した。広瀬はロシア大使館の武官で、旅順港閉鎖のときに行方不明になった杉野兵士曹長を捜し歩いたが、ついにボートで脱出するときに爆撃を受けて戦死。少佐が中佐になった。日本最初の軍神だった。


(クリックして拡大)

投稿者 staff : 2007年11月03日 13:33

コメント

高田元吉さんは若い頃、相撲取りでしたでしょうか?
玉の川元吉という四股名を聞いたことありますか
教えて下さい。よろしくお願いします。

投稿者 植田憲司 : 2009年05月12日 19:54

植田様
山岡鉄舟研究会事務局です。
ご質問の件、事務局では残念ながら存じ上げません。
どのようなことがお知りになりたいか、差し支えなければもう少し詳しくお聞かせくださいませんでしょうか。
そうすれば本記事の高田明和様にお尋ねすることもできるかと思います。
よろしくお願いします。

投稿者 事務局 : 2009年05月15日 01:31

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