« 山岡鉄舟展を見てきました | メイン | 鉄舟の新婚時代・・・貧乏生活その一 »

2008年09月11日

9月例会の感想

秋晴れに恵まれた9月の吉日、鉄舟例会が行われましたので、ご報告いたします。
reikai_080910_01.JPG

今月は初めて参加される方が7名もおいでくださいました。ありがとうございました。とても嬉しいです。
山岡鉄舟を、そして山岡鉄舟を学ぶことを、時代が求めているように思えました。ちょっと考えすぎですか…。

reikai_080910_02.JPG reikai_080910_03.JPG

今回も、先月に引き続き高橋育郎氏に、「明治維新と西洋音楽」の第2回をお話しいただきました。
今回は「唱歌の誕生」と題し、唱歌が教育にどのように取り入れられていったかが語られました。
「学生」の制定とともに、小学校には「唱歌」という科目が創設されましたが、当時音楽を教えられる人材がなく、唱歌はしばらくの間教えられませんでした。
そこに登場したのが、「伊坂修二」でした。
高橋氏は、彼こそが日本の西洋音楽普及の祖であるとおっしゃっています。
詳細は講演記録をお楽しみに。


続いては、山本紀久雄氏の鉄舟研究です。

reikai_080910_04.JPG reikai_080910_05.JPG

今回も、清河八郎を追います。
伏見寺田屋事件の現場に、なぜ清河はいなかったのか。
その謎が明かされました。
このことには、本間精一郎というお金持ちのボンボン浪士が関わっていました。
彼との船遊びが、清河を事件から遠ざけたのです。
詳細は講演記録をどうぞ。


時代は常に変化していきます。
その変化にどう対応するか、すなわち、変化をどう自分に取り込むかによって、自分の生き方が変わってくるのです。
清河八郎は、そんな時代の変化条件を活用できる人物でした。
ひとつは、学者を志して上京したが、革命家に目覚めた瞬間。
ひとつは、全国で攘夷を謳ってまわり、多くの志士を京都に集結させたこと。
ひとつは、浪士隊を結成することにより、自分や志士たちを正規軍として承認せしめたこと。
清河は、時代の変化の瞬間を捉え、活かす術に長けていたといえるでしょう。
ただ、それがよかったかどうかについては、後の彼の運命が語っているのではないでしょうか。


今回の山本氏の研究で、ダーウィンが語ったといわれている有名なあの一文を思い出しました。
「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるわけでもない。生き残るのは変化に敏感なものだけである」

鉄舟をこれに照らし合わせるとどんな分析ができますかね。
今後の研究が楽しみです。

来月もお楽しみに。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 2008年09月11日 06:59

コメント

コメントしてください




保存しますか?