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2006年06月09日

5月例会記録(2)

5月例会記録

■山本紀久雄 氏の発表
「鉄舟が旅で学んだ最先端思想」

栗原さんのお話を聞いていると自然体ですよね。
今日の午前中は修善寺の曹洞宗の寺に行ってきた。還暦得度された方が修行にこられる寺。定年になった方がお坊さんになるための修行所。
寺は山の中になり、寺を守る尼僧に何を食べているか聞いたところ”その辺りにあるものを食べている”と。
我々の「その辺」だと冷蔵庫だけれど、尼僧の「その辺」というのは草花。すごい自然な生活をしているからでしょう、目が澄んでいる。
その前の日は、伊豆長岡の三養荘という旅館~4万2000坪の敷地、1泊7万円以上~に招待されまして、着物の美女80名いるところで大宴会していた。
昨日、今日で極の経験をした。

三養荘では、温泉の今後迎えるであろう問題について話してきた。温泉の専門家として認められつつあるようなので、ご必要があれば世界の温泉について詳しくお話する。
午後は神田の古本屋街を回っていた。
「剪画」の「剪」に「紙」をと描くと「剪紙=きりがみ」といい、免許証のことを指す。鉄舟15歳のときに、久須美閑適斎から新陰流の免許皆伝の剪紙をうけた、というが免許のことですね。

山岡鉄舟はいろんな方が研究しており、8代目坂東三津五郎もその一人。三津五郎さんは、芸風が良く、エッセイストクラブ賞も受賞しており、歌舞伎界の生字引といわれた方。歌舞伎に「慶喜命乞い」という演目があり、山岡鉄舟を研究したらしく、三津五郎さんが大森曹玄先生と対談して鉄舟について語っているので、どんなことを語っているかご紹介する。

昭和20年8月15日は日本が敗戦した日。日本は混乱に陥った。138年前は幕末の明治維新で、江戸市民も同じように大混乱に陥った。当時江戸市民にとって一番偉い人は将軍で、京都にいる天子様は関係なかった。将軍様が大阪から帰った途端、上野の山に隠れてしまった。天子様からの命令で官軍という薩長の輩が攻めてくる。攻めてきたら江戸は焼けてしまうだろうと大混乱に陥った。鉄舟が駿府で話しをつけてきたけれども、戦いたいと彰義隊が来るなど多忙であった。江戸幕府は戦う気持ちであり、戦うのをとめたのは鉄舟・海舟、あと数人だけ。流れに反抗した鉄舟は多忙な中、出入りの植木屋、畳屋の職人や役者に会って、自分の仕事を昨日と同じようにやるだけだ、ということを一人一人に説得した。来るかこないかわからないことに右往左往して、混乱するよりも、混乱のときこそルーチンの生活を守ることがおまえの仕事であろう、生き方であると語り、江戸っ子は納得した、と8代目三津五郎が大森先生との対談で語っている。

昭和20年8月15日に誰一人として、鉄舟のように日本国民に向かって、戦争に負けたけれども今までのように仕事をしてくれ、といった人がいない。鉄舟が居たら言ってくれたろう。

戦争に負けたから切り替えて明日からのために生きたらどうか、と言った人が日本中にたくさんではないが居たと思う。ただ、鉄舟のように影響力のある人、世の中を一言で黙らせてしまうような人が昭和20年8月15日いなかった。
8代目三津五郎さんは、そのように言いたかったのではないか。明治天皇があれだけ立派な天皇になられたのは鉄舟がいたから。鉄舟は研究すればするほど、敵わないと思わせられる人物ですね。

鉄舟も、生まれたときから大人物であったのではない。人には自分自身を作りかえたターニングポイントがある。鉄舟のターニングポイントは沢山あるが、一番は15歳のとき、兄と一緒の伊勢参りの旅。長旅に出た理由はわかっておらず、父親の代参という説もあるが、元服の記念に行ったのではないかと考えている。当時の武士のたしなみは剣と禅であり、常識として身につけるものだった。鉄舟は剣と書はやっていたが、禅をやる機会がなかった。20歳になって禅をはじめたときは命がけですさまじい修行の後、悟った。

あるところで、“悟ることは簡単なこと”というお坊さんの話をきいた。天気だな、ごみ捨ての日、と気づくのも悟る。大きく考えなくても、簡単にいえば日々納得することが悟るである。
では鉄舟はなぜ簡単に悟らなかったのだろう。20歳から修行に入って、明治13年にやっと悟った。鉄舟の悟りの修行と、「ごみを捨てる」悟りとは雲泥の差がある。お坊さんのいうことも一理あるでしょうが、私たちは鉄舟を研究しているのだから、鉄舟の悟りの深さ、勉強のすさまじさを見習いたい。

鉄舟は生き方の型をみつけるために悟ったのではないか。生きる型を知らないままに生きると上達しない。定石を知らず囲碁や将棋を打つようなもの。

先日の温泉旅館では、存在価値を文化的に伝えていく型についてお話した。
旅館の経っている土地、過ごした歴史、現在、今後の希望がミックスされたものが、時代の流れと適合しているか、していないなら、どうするか、と。
同じように我々も自分の生きる型を持たなかったら、時代に翻弄されてしまうのではないか。自分に納得させる時間が必要。それが鉄舟にとっては15歳のときの旅だった。

誕生日に"1日1日熟成した人生を送りたい“とおっしゃった方がいた。
”熟成”をどうやって判断しますか?年齢は時間軸で決まる。しかし内面的
な「熟成度」は、自分自身で測るしかない。

日本人はどういう人間かというと過去の行動をみれば、思い込んだら命がけのところがある、ということがわかる。第2次世界大戦では、中国と泥沼の戦争をして、なぜ超大国のアメリカに挑んだのか?日本の軍事力は2分すれば弱くなるのだから中国との戦争をやめて、アメリカ一本にすればいいのに。戦争が終わり、経済成長になり、バブルになって、バブルが崩壊という過去を見れば、集団的一方方向に行きやすい国民である。バブルのときも戦後も鉄舟みたいな人間がいて、止めたら止まったかもしれない。
我々は、冷静な判断に欠け、情緒的に、一方方向に行きやすい面がある。
熟成という言葉よりも他人からの"立派だな"という評価の方がいいと思った。

鉄舟の話しに戻るが、江戸時代の旅のイメージは、追剥ぎがいる、女性の一人旅はできない、飢饉があちこちであって野垂れ死にしているという悲惨なものでしょうか。

お伊勢参りは最盛期に年間60万人が行っていた。当時人口3000万以下なので、相当な人数。伊勢参りにはお金がかかるので、地域で講つくり、お金を出し合い、積み立てられたお金で、伊勢参りに行っていた。講は全国で439万軒あり、2200万人にお伊勢講に参加した。人口の85%がお伊勢講に参加できる、旅籠や休憩所、道など旅に必要なインフラができていた。15歳の少年はもちろん、15歳よりも小さい子も行っていた。江戸時代は、水も病院も提供できる豊かな基盤があったことを証明している。

今の温泉利用の仕方は、だいたい1泊で温泉入ってあがったらビール一杯。温泉をそういう場所にしていませんか?
お伊勢参りは、願掛けが終わったあとの精進落としが楽しみで参加している人がいた。寺社詣と温泉はセットになった成長産業だった。我々の今の温泉利用方法は江戸時代から身についてしまっている。外国からみたら、日本の温泉は温泉と認められていない。日本は温泉大国と思っているが、利用の仕方がヨーロッパからみると温泉利用になっていない。

鉄舟は旅先で出会った方から先端思想(リーディングエッジ)を知った。
私もリーディングエッジを求める旅をしていて、その結果を雑誌『ベルダ』に書いている。世界を見ていると日本の未来に来るであろうことを噛み砕いて書いている。旅は非日常空間に身を置くことで、新しいことを受け入れ、感覚が新しくなる。旅行に行ったなら新しいことを見つけていないとだめ。

鉄舟は、旅で2人の人物にあった。藤本鉄石(鉄舟と因縁になる清河八郎に教えた人物で天誅組に参加した倒幕人物)から『海国兵談』という当時発禁本を借り、写した。林子平が書いた本で、日本の海岸線の防備を警告する内容だったが、幕府は危険思想だと発禁処分にした。

もうひとりは父親が伊勢の神官であった足代弘訓から国学の話を聞いた。
~彼と話したかどうかは確実ではないが、その後の鉄舟の行動を見ると、話をしたと思われる。~国の中心に天皇がいるということを知っていたから、国を一つにしなければと考えられた。そうでなければ、官軍に抵抗する側にまわったと思う。

そういうことの理解するためには構造問題を知らなければならない。
心理学者の斎藤氏から聞いたお話を紹介する。雨が降ったら、傘さしますね、雨=原因、傘を差す=結果。しかし傘を差したら、雨が振るとは限らない。
この例なら誰でもわかるが、実際には同じことと理解してしまう。
人間の思い込み、構造の違い、自分にわからないことがあることを、初めて知った。今までの考え方をここで知り、その修行に入ったのではないか。
江戸幕府は続いていたから考えなくても生きていけた。ペリーが来たり、外国の船が日本中の周りに来ているのは知っていたが、考えることと真剣になるのは違う。日本は中国(清)を見習ってやってきた。その見習うべき超大国がイギリスに負け、ここで初めて、日本という国を意識したと思う。
日本という国のアイデンティティ、どういう存在なのか、日本らしさとは何か、ということを日本人が初めて考えた。そこで生まれたのは国学思想です。


「日本」を「自分」に切り替えて考える。自分というものはどういう存在なのか、自分のアイデンティティは何か、自分らしさとは何か、そういうこと。
鉄舟を研究するということは鉄舟を通じて、自分は何か、自分とはどういう存在なのかを追求する旅をしようと思っているのではないかと思っている。

そういう意味で鉄舟という歴史を勉強するときに、~鉄舟は○月○日に何をしたかと事実を争う研究もそれはそれで立派なことだが~なぜ鉄舟はそういう行動を取ったかを考える。

無血開城ができたのは、慶喜の命令を受けたから駿府行ったためでしょうが、当時一番の有力者西郷隆盛を説得したのはほとばしる人間力によってでしょう。
鉄舟には、何のためにいくのか、行く以上は自分らしさとは何か、アイデンティティを考えて発した迫力があったから会談が成功した。

真実は何かという行動解明のための歴史の勉強が大事。鉄舟を通じて、時代は違うけれど、鉄舟を取り上げることで、時代の構造問題を究明していくことが鉄舟研究会の役目ではないか、と最近はそう思っている。

先月はPHPの『本当の時代』の読者の会で話をしてきました。
最近あちこちで話すことが多い。これからも研究をしてまいります。


【事務局の感想】
山本さんのお蔭で、自分は鉄舟研究をしていないのですが、鉄舟に関することを様々な角度から知ることができます。同時に鉄舟を今の時代において考えたときにどう生かせるか、どうなるのかなどを学ぶことができます。しかもリーディングエッジという最先端の事柄を山本さんの傾向を知ることができる。このような勉強会は、鉄舟サロンのほかにはないのではないかと思います。昔を未来に生かす鉄舟研究を、次回も楽しみにしています。

投稿者 staff : 2006年06月09日 15:20

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