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2005年10月23日

薩摩藩上屋敷の今はホテル

鳥羽伏見の戦いの原因となったのは、江戸薩摩藩上屋敷への攻撃でした。薩摩藩上屋敷は三田四国町にあって、今は港区芝三丁目辺りである。東西約800メートル、南北約300メートルの敷地を有する広大な屋敷でした。
ここを幕府のお雇い武官であるフランスのブリューネも参加し、砲撃を加えたのである。攻撃の主力は庄内藩で、その他に上之山藩や鯖江藩なども加わった。

この経緯について「徳川慶喜公伝4」(渋沢栄一編)と、当時、外国奉行並町奉行であった「朝比奈甲斐守昌弘(閑水)」の手記を要約してものが「西郷隆盛」(海音寺潮五郎著)にあり、それらを整理すると次の通りである。
「慶応3年10月頃から江戸市中で、強盗が富商の家に侵入して、江戸府内をさわがせたので、町奉行で調査したところ、このうちの七八人あるいは十人余の賊は三田の薩舟邸から出ていることが判明した。しかし、この頃の町方与力や同心らは軟弱な輩ばかりで、手に負えないので、庄内藩主酒井忠篤に市中の取締りをさせることにしたが、なおやまなかった。酒井家に新徴組を所属させて、これもまた市中巡視にあたらせたが、やはりそれほどの効果はなかった。
幕閣では種々協議したが、薩摩藩邸を攻撃すべきという意見と、事前に京都にいる慶喜の指示を仰ぐべきであるという意見が対立し、議論は三昼夜に及んだが、朝比奈の意見で慶喜の指図を仰ぐという意見が通ったのが12月24日。この決定を早速攻撃派に伝えたが頑強に抵抗され、すぐに攻撃すべきだと逆に強行主張され、圧され、とうとう閣老らは攻撃策に踏み切ってしまい、翌25日、遂に薩摩藩邸とその支藩佐土原藩の三田の邸を焼いた」

この薩摩藩の跡地は、現在どうなっているか。広大な敷地であったので、細かく所有者が分かれているが、中心部分には芝三井ビル・セレスティンホテルが建っている。このセレスティンホテル西側には「芝さつまの道」と称して、当時の面影を残す雰囲気で散歩道が造られています。そこには「江戸東京重ね地図」(安政三年・1856年)と「薩摩島津藩上屋敷図」(寛政二年・1790年)のパネルが表示されていますので、ご関心ある方は一見の価値ありです。

投稿者 Master : 2005年10月23日 13:40

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