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2005年06月07日

福山十万石天守閣


鉄舟を訪ねる

月刊ベルダ誌に「山岡鉄舟」を連載し始めまして、その取材で各地を訪問いたしております。
今まで「鉄舟研究」というファイルで毎回研究結果を報告しておりましたが、この「鉄舟研究」内容が月刊ベルダに連載されますので、それをこのHPで発表することは、ベルダ編集長の了解が必要となってまいりますし、また、同じ内容ですと面白くありませんので、今月から「鉄舟を訪ねる」というテーマで掲載して行きたいと思います。
ベルダ誌の2005年7月号は6月29日に発行されますが、そこに掲載される山岡鉄舟は「山岡鉄舟の武士道」というタイトルで、武士道の忠義の観念と、名誉の観念、それが江戸無血開城を西郷との会見で決めたときに、鉄舟の中でどのように「忠義と名誉」が折り重なって発揮されたか。その理由と背景と鉄舟の心理を分析しております。
多分、今までの鉄舟研究家・学者の誰もが書かなかった内容で構成されているはずです。今回のベルダ連載内容は随分考えました。これからも考え続けますが、折角、雑誌で発表できるのですから、今までとは異なった解釈・分析で展開して行きたいと思っております。皆様からのご指摘を期待しております。

というようなわけでございまして、今回の7月号の取材は静岡の「西郷・山岡 会見の史跡」の持ち主である原田勇ご夫妻にお会いしたわけです。原田ご夫妻と、奥様の父上である原田鉄雄様がご努力しなければ、現在の「西郷・山岡 会見の史跡」の石碑がありえなかったのです。その経緯はベルダに掲載しましたし、徳川慶喜の屋敷跡も写真掲載いたしましたが、今回は静岡からもう少し足を伸ばし、広島県福山市に行ってまいりました。仕事もあって行ったわけですが、新幹線の福山駅前は福山城です。そこで福山城の中に入りまして天守閣を写真に撮ってまいりました。福山十万石といえば幕末期の老中「阿部正弘」が藩主です。
25歳にして老中となり、14年間幕閣を動かして39歳の若さで亡くなりましたが、その時期はペリーの来航などで騒然とした政治情勢を取り仕切ったのです。
「阿部正弘」の業績の功罪については、いろいろ見解が分かれますが、一時代の名老中として日本のリーダーであったことは間違いないところです。あの勝海舟が、あと数年「阿部正弘」が存命していたら、薩長は抗敵になっていなかっただろうと述べているほどの人材です。その居城の天守閣を今回は写真でご紹介します。

投稿者 Master : 2005年06月07日 14:54

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