« 1月例会記録(2) 発表者山本さん記録 | メイン | いよいよ「武士道」の発表 »

2005年01月31日

吉村昭の彰義隊に登場する鉄舟

会員の矢澤昌敏さんからの投稿です。

吉村 昭氏の新連載小説「彰義隊」を読んで

朝日新聞夕刊に「天狗争乱」以来、11年ぶりの連載となる新連載小説「彰義
隊」は昨年10月21日より始まり、その作者である吉村 昭氏は、昭和2年
(1927年)東京・日暮里に生まれる。
自身の出身地である東京の下町が舞台だけに、臨場感ある物語が展開されそう
だ。

彰義隊は戊辰戦争時に、東京・上野の山に、新政府軍と戦って破れた旧幕臣の
部隊。
戦闘そのものは1日で終わったが、一部は北関東、東北に逃げ、更に北海道に渡った者もいた。

この連載小説の中には、我等が研究している人物・山岡鉄舟(鉄太郎)が重要
な位置付けで登場しております。

まずはその一文、第32回「寛永寺 二」にてのあらすじ、
《江戸に帰った徳川慶喜は、上野・寛永寺にこもって謹慎した。
だが、朝廷軍は江戸に向け進軍を開始。
山岡鉄舟らは、皇族の輪王寺宮に、慶喜の謝罪嘆願を受け入れてくれるよう
朝廷に働きかけてほしい、と懇願する。
宮一行は京に向かい、小田原宿に着くが、朝廷軍先発隊の態度は倣岸だった。》

また、第55回「江戸 七」にてのあらすじ、
《大総督府は、慶喜の謝罪を受け入れず、朝廷軍は江戸に迫っていた。
 勝安房守は、幕臣山岡鉄舟に駿府の大総督府へ行くよう求めた。
 慶喜恭順の真意を説明し、江戸が戦場にならないよう、改めて訴えるためだ。
 山岡は、勝のもとに幽閉されていた薩摩藩士益満休之助を伴い、東海道を下
った。》

そして、もっとも山岡鉄舟が活躍したところ第62回「江戸 十四」では、
《大総督府のおかれた駿府城においての西郷隆盛との会談:山岡の口が、動い
た。
「あくまでもこのまま兵を進めると申されるなら、それは天子様の御軍勢とは
申せません。
 天子様は、民の父であり、善悪を明らかにし、国を売ろうとする者を討ち果
たす、それが天子様の御軍勢と申すべきです。
つつしんで朝廷の御沙汰にしたがうと申している主君慶喜様に対し、寛大な
御処分がなければ、天下これより大乱となることは明らかです。
なにとぞこのことを十分にお考えいただきたい」
山岡の顔には、決死の色が濃くうかんでいた。》

この西郷隆盛との会談は、ここ一番の判断を誤れば、以後の盛衰に禍根を残す
という「切所」がある。明治維新という国家の切所に光芒のごとく現れ、江戸
を焦土から救った山岡鉄舟の捨身の行動が江戸城無血開城という大きな仕事を
し、強いては 日本を維新の混乱から救った。
「晴れてよし曇りてもよし不二(富士)の山、元の姿は変わらざりけり」と、
超越した心境の至った山岡鉄舟の研究に携われる喜びを感じざるを得ません。

以 上

多くの皆様から投稿をお待ちしております。

投稿者 Master : 2005年01月31日 11:04

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.tessyuu.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/23

コメント