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2005年01月27日

1月例会記録(1) 発表者永島さん記録

発表者:永島さん、山本さん、事務局

1.事務局より
平成17年度の春のイベントのご案内
跡見学園大学(新座市)の桜と跡見学園創始者の資料見学を計画中
日程:4月2日(土)又は3日(日)を予定しています。

2.永島さんの発表 「鉄舟はどのようにして書を学んだか」
1)私と鉄舟との出会い
 平成12年の日経新聞に小川町二葉にて「鉄舟の書の展覧会開催」の記事をみて、書道を勉強しているので、鉄舟については知らなかったが、展覧会見学と講演会に参加したのが、キッカケである。

2)鉄舟、高山での7年間
弘化2年(1845)7月1日 父、たかよし高福、飛騨郡代に任命される。
同年8月24日 父と共に鉄舟(10歳)高山に到着。
富田いやひこ礼彦・節斎の日記、「公私日次記」の弘化2年8月の頃に「御手本認差上云々」と記載あり、鉄舟は高山に到着早々、節斎に師事したと思われる。
嘉永元年(1848)11月、鉄舟(13歳)は入木道五十一世岩佐一亭から「千字文」の肉筆を入手したと思われる。
これを約一ヶ月学んだ後、父が美濃半紙を与え「千字文」を清書するように命じた。鉄舟は直ちに「千字文」を書き上げた。父はその出来栄えと上達の早さに驚嘆し、翌日、これを一亭に見せたところ一亭、短期間の上達振りを賞賛した
その場に居合わせた北辰一刀流井上八郎・清虎も賞賛し励ました。清虎の高山滞在期間から鉄舟13歳の頃と推定される。清虎は高山に嘉永元年(鉄舟13歳)と嘉永四年(鉄舟16歳)の二回来高しているが、第二回目は鉄舟16歳、既に入木道に入門しており時期が遅い。やはり、第一回目(鉄舟13歳)であろう。

★ご存知の方は、ご連絡願います
「鉄舟は書に、年月日を記入したと言っているので、この「千字文」の原本をみれば、いつの頃かが分かる。この原本がどこにあるのかご存知の方は、お知らせ願いたい。」

嘉永3年(1850)3月1日、一亭は鉄舟(15歳)から「入木道書法入門之式一札」の神文書を受けて正式門人にとりたてた。
同年10月、一亭は鉄舟に入木道五十二世の伝統を伝授し、「一楽斎」の号を与えた。
嘉永5年(1852)2月27日、父、死亡。
同年7月21日、鉄舟(17歳)高山を出発、7月29日江戸へ到着。

3)書の手本
書の上達のためには、手習いと目習いが大切である、といわれているが鉄舟は中国の古典であるおうぎし王羲之(十七帖)、ち智えい永(千字文)がん顔しん真けい卿(麻姑仙壇記)等法帖の臨書、又、空海の手蹟研究を通じて書の奥義を会得した。このことは墨跡からも伺える。

4)[守]・「破」・「離」空手の段階と会い通じる
[守]・「破」・「離」を鉄舟と結び付けてみると
「守」-基本を身につける・・・一亭に学んだ頃
「破」-創意を加え殻を打ち破る・・・45歳まで。創意を加えている。
「離」-無心で自由な世界、心・技・体が一つになった心境・・・45歳以降。

鉄舟は手記「書に就いて」の中で「明治十三年三月三十日、余、剣、禅の二道に感ずるところありしより、諸法皆其揆一なるを以って、書亦其筆意を変ずるに至れり」と、述べている。時に鉄舟45歳の春、「鉄舟流」の完成に至ったのである。「離」に至るのは至難の業であるが、「守」がなければ「破」も「離」ないことを我々は学ぶべきである。
 
●事務局の感想
鉄舟サロンには、剣・禅・書の達人である鉄舟の3つの達人分野のいずれか、またはすべてに関心をもってファンになっている方々がいますが、今回は書道という面から、永島さんに発表していただきました。永島さんの書を展示しながらの発表に、書道の奥深さ、魅力を感じました。      

投稿者 Master : 2005年01月27日 09:49

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