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<title>山岡鉄舟　研究会</title>
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<modified>2012-05-15T01:43:04Z</modified>
<tagline>江戸城の無血開城を実現した幕末の偉人「山岡鉄舟」の生き方を学ぶ研究会</tagline>
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<title>痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六</title>
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<summary type="text/plain">痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 榎本武揚を辰之口牢獄...</summary>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>痩せ我慢の説と鉄舟・・・其の六<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>榎本武揚を辰之口牢獄から赦免するよう、黒田清隆に働きかけたのは福沢諭吉であるが、既に黒田は五稜郭の戦いで榎本の才能を認めていた。</p>

<p>凾館戦争時も終焉に近づきつつあった明治二年（１８６９）五月十三日、新政府征討軍陸軍参謀黒田清隆は、五稜郭の総裁の榎本に降伏勧告書を届けた。だが、榎本は拒否し、その代わりに「兵火に焼くのはしのびない。活用して欲しい」とオランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」、自らが翻訳書写し数多くの脚注等を書き入れた、当時の日本ではまだほとんど知られていなかった国際法の研究書であるが、これを戦災から回避しようと、黒田に差出したのである。</p>]]>
<![CDATA[<p>この「万国海律全書」を見た黒田は、榎本の非凡な才に感服しつつ、十六日に返礼として酒樽と肴を贈った。榎本が切腹を図ったのはこの日の夜遅くであったが、近習に止められ断念、ここで降伏を決意、翌日、黒田のもとに向かい五稜郭は開城となった。</p>

<p>辰之口牢獄に送られた榎本の処置について、長州・土佐藩は断罪を叫んだが、黒田は榎本が日本にとって必要な人物と判断、加えて、福沢の赦免申し入れもあり、助命しようと各方面に熱心に助命嘆願活動を行い、頭を丸めて最終決定会議に臨み「この通りだ。この頭に免じて許してくれ」とまで懇願した。</p>

<p>この黒田の主張を支持したのが西郷隆盛であった。江戸無血開城の際に徳川慶喜を救った西郷が、榎本も助けたのである。</p>

<p>赦免された榎本は、北海道開拓使次官のポストにいた黒田から、明治五年三月開拓使に出仕するよう要請され明治政府に入り、以後要職を歴任、明治二十一年の初代伊藤博文内閣では逓信大臣、第二代黒田内閣で農商務大臣を兼任し、その後文部大臣に任じている。</p>

<p>またこの間に、黒田の長女と榎本の長男が結婚、両家は親戚となり、この夫妻の養女が黒田家に嫁ぐなど、二人は一段と強固につながり、終生信頼し合う仲であったという。</p>

<p>ところで、司馬遼太郎が、この黒田が明治維新三傑の二人、西郷と大久保を殺したという指摘を名指しで行っている。意想外な指摘であり、日本の政治裏面史として興味深いので余談となるがふれたい。</p>

<p>　それは司馬遼太郎著の「翔ぶが如く・第三巻」で、<br />
「黒田は、結果としてかれが師とあおいだ西郷と大久保をともに殺したということになる」と書き述べている。</p>

<p>この指摘内容、まず、西郷について解説すると、黒田は薩摩藩であるので、元々西郷隆盛の支配下にあり、西郷に従っていたが、征韓論論争では西郷に対立する大久保利通側につき、大久保の指示を受け精力的に反対に動き回ったことが、西郷を下野させる要因となり、西南戦争で自決する事態につながった、というのが司馬遼太郎の見解である。</p>

<p>征韓論を述べだせば、それだけで一冊の本となるほどであるのでこれ以上はふれないが、黒田の動きが西郷を死にいたらしめたという主張である。</p>

<p>次に、大久保を殺したとはどういうことなのか。これは黒田の特異性ある二面性人格が影響しているので、少し解説を加える必要があり、再び司馬遼太郎の言葉を借りたい。（翔ぶが如く・第三巻）</p>

<p>「黒田清隆はかれ自身がどう制御することもできないほどの豪酒家である。酔えば人格も知能もいちじるしく低下するという精神病の範囲に入るところのアルコール性痴呆症であった。そのくせ、素面のときには謹直で、およそ人に対してかっとなったことなどはなく、浮浪者にいたるまでかれは底ぬけに親切であった。一定量の酒精が入ると人格が一変するという点では、かれに見るほどの典型症状はすくないにちがいない。いかに高官でも――かれの上司である三条実美や同僚の伊藤博文、井上薫ですら――乱酔中のかれから罵倒されたり、ピストルでおどされたりした。</p>

<p>この男が、その妻を斬殺したのである。夫人は多病であった。しかし素面のときの黒田はこの夫人をいたわり、他に婦人を設けるようなことはなかった。</p>

<p>西南戦争がおわったあとの明治十一年の三月、泥酔してもどった黒田が、ささいなことから妻を斬り、死にいたらしめたらしいのである。</p>

<p>当時、黒田は開拓長官を兼ねて参議でもある。現役の大臣が殺人罪を犯すという例は、それ以前にもそれ以後にもない。事件は内密にされたが、新聞が確認困難なニュースを諷刺(ふうし)のかたちで書いた」</p>

<p>この当時、大久保が事実上の首相であったが、大久保は広まる諷刺内容を隠蔽するよう、東京の治安を担当している大警視川路利(とし)良(なが)に指示、川路は黒田の妻の墓所を掘って棺内をあらためることにしたが、川路は棺の蓋を少しだけ開け、すぐに「これは、病死である」と断言、直ちに元どおりにして埋めてしまう。</p>

<p>この処理が世間に洩れて、一般大衆から「国法が大臣に及ばずということは暗黒国家である」という悲憤の声が満ち溢れ、この事が大久保を暗殺した犯人の斬奸状に書かれていたという。大久保は明治十一年五月十四日に紀尾井坂で襲撃され殺されたが、その下手人島田一郎が大久保暗殺の理由の一つあげていた事から、黒田夫人の怪死事件処理が大久保暗殺につながったのだというのが司馬遼太郎の主張である。</p>

<p>実は、この斬奸状に黒田夫人の殺害が具体的に書かれていたかどうか、史実確認で意見が分かれているところだが、黒田はそのような疑念を抱かせる二面性人格であったことは間違いなく、このような人物が日本の二代首相として政治を任されたのである。</p>

<p>もう一つ余談であるが、伊藤博文初代首相も殺人を犯している。それは井伊大老の後を継いだ坂下門外の変の安藤信正老中が、天皇の「廃帝」を図っているという噂が広まり、その「廃帝」手続きを調べ研究しているという疑念で、和学者の塙次郎が文久二年（１８６２）の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔（博文）と山尾庸三であった。</p>

<p>塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。</p>

<p>伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。</p>

<p>明治22年（１８８９）に大日本国憲法が公布、翌年第一回帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が始まって、新たに首相制度が設置されたが、その初代・二代の首相がいずれも殺人に関わりがあったという日本の政治裏面史を理解しておきたい。現在とは比較できない程の近代化への混乱期であったという意味である。</p>

<p>さて、福沢諭吉の「痩せ我慢の説」に戻りたい。福沢の海舟への批判は「勝氏はあらかじめ必敗を期し、そのいまだ実際に敗れざるに先んじて、みずから自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたるは者なれば、兵乱のために人を殺し、財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる痩我慢の士風を傷うたるの責めは免るべからず」と、戦わないのは武士道にあるまじきものというもの。</p>

<p>榎本へは「氏を首領としてこれを恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」と、二君には仕えるべきでないという批判であった。</p>

<p>この福沢による海舟の「あらかじめ必敗を期し」と、榎本が「二君に仕えた」という指摘は鉄舟にも当てはまる。鉄舟は海舟と幕末を共にし、明治天皇の侍従となっているからである。しかし、福沢から批判は受けなかった。何故に福沢から論評を受けなかったのか、否、福沢が批判できなかったと理解すべきだが、その事を考えてみたい。</p>

<p>その分析に入る前に、江戸時代の武士とはどのような人間達であったのか。それを司馬遼太郎の言葉を再び借りて紹介したい。（翔ぶが如く・第一巻）</p>

<p>「江戸期の武士という、ナマな人間というより多分に抽象性に富んだ人格をつくりあげている要素のひとつは禅であった。禅はこの世を仮宅であると見、生命をふくめてすべての現象はまぼろしにすぎず、かといってニヒリズムは野(や)狐(こ)禅(ぜん)（注：禅に似て非なる邪禅のこと）であり、宇宙の真如(しんにょ)（注：あるがままであること・真理のこと）に参加することによってのみ真の人間になるということを教えた。</p>

<p>この日本的に理解された禅のほかに、日本的に理解された儒教とくに朱子学が江戸期の武士をつくった。朱子学によって江戸期の武士は志(こころざし)というものを知った。朱子学が江戸期の武士に教えたことは端的にいえば人生の大事は志であるということ以外になかったかもしれない。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた」</p>

<p>と述べ、続けて</p>

<p>「西郷は思春期をすぎたころから懸命に自己教育をしてこの二つの要素をもって自分の人格をつくろうとし、幕末の激動期のなかにあってそれを完成させた」</p>

<p>と西郷が江戸期武士の典型であると評価している。</p>

<p>この司馬遼太郎に沿って鉄舟について考えれば「鉄舟は幼年期から剣禅一如(いちにょ)（注：絶対的に同一である真実の姿）を求めて、幕末から明治期にかけて大悟し自己を完成させた」人物であり西郷とは別次元での武士の典型であった。そのことを次のエピソードから紹介したい。</p>

<p>後に僧侶となった人物が、維新後、鉄舟宅で玄関番をしており、ある時鉄舟に尋ねた。</p>

<p>「剣の極意とは何でしょうか」<br />
「それは浅草の観音さんにある」</p>

<p>そこで浅草寺に日参したが分からない。そこで再び鉄舟に尋ねると、<br />
「それは寺の扁額にある施無畏(せむい)だ。あれが極意である」</p>

<p>との回答。施無畏とは「観音経」（妙法蓮華経観世音菩薩普門品(ふもんぽん)の経文にある「怖畏(ふい)急難の中において能(よ)く無畏を施し給う」からきている。</p>

<p>この「無畏を施す」とは、人間の一生は何をするのかというと、怖れのないところを掴むことで、何ものも怖れない。何ものにも怖じけない。つまり、病気を怖れず、死を怖れず、貧乏する事も怖れず、すべてに対し怖がらないという意味となる。</p>

<p>鉄舟は明治十三年（１８６０）三月三十日に大悟し、この「施無畏」境地に達し、その心境を詩で語っている。</p>

<p>学剣労心数十年　　（剣を学び、心を労すること、数十年）<br />
臨機応変守愈堅　　（機に臨み、変に応じて、守り愈々(いよいよ)堅し）</p>

<p>意味は「剣を学び、心を労して数十年。相手次第で臨機応変、自由に変化して、負けることがなくなった。堅い塁壁も一朝ことごとく摧破され、痕跡もなくなった」という絶対境地である。</p>

<p>また、この施無畏という心境は、現代剣道でもよく説かれるという。筆者はパリ在住の剣道最高位八段で作家の好村兼一氏から、パリ訪問時にお会いし剣道についてご教示を受けている。その好村氏が今年の四月に「神楽坂の仇討」（廣済堂出版）を著した。早速読んでみると、主人公は幕末に北辰一刀流、鏡新明智流と並んで江戸三大流派と呼ばれた「神道無念流」物語であるが、その開祖「福井兵右衛門」に次のように語らせている。</p>

<p>「人性は即ち天性であり、私の所為ではない。性は陰陽、長短、勇弱、知愚・・・と、様々な象(かたち)として表れながら、その本源は一つなのである。本源の真理に明らかとなれば、万理に通じ、心は融通(ゆうずう)無碍(むげ)。体は鏡に揺動する影のように円滑自由である。機を窺い隙を打たんと欲するのは邪念であり心の偏(かたよ)りに他ならず、心偏れば体は凝(こ)り固まる。本源妙智の一刀を求めるには、心を無念の位に置き、己を天性に委ねるべし・・・」</p>

<p>この境地は鉄舟が達したと同じであり、剣の奥義に達した名人は同様な事が分かる。</p>

<p>さらに、好村氏は鉄舟が受け継いだ一刀流の開祖「伊藤一刀斎」も著しており、そのあとがきで「一刀斎が築いた一刀流剣術は現代剣道の根幹を成しており、極意『切落し』は今なおそこに生き続けている」と述べている。</p>

<p>この切落しとはどのような極意なのか。鉄舟が記した「一刀正伝無刀流十二箇条目録」に「切落之事(きりおとしのこと)」が第二極意としてある。好村氏によると「切落し」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間に、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことであるという。相手の太刀筋を受けかわすのではなく、相手から逃げず、真正面から立ち向かって、相手の剣が向かってくる時に、こちらの剣を振りきるのである。</p>

<p>素人流に考えれば最も危険な太刀筋と思われるが、これが四百年以上の古き時から、現代剣道の根幹をも成してつながる極意なのである。</p>

<p>しかし、この切落し極意を真剣勝負の太刀捌きとして熟(こな)せるのは、明治以降では鉄舟しかいなかったのではないかとも好村氏は語る。</p>

<p>つまり、「すべてに対し怖がらない」という大悟・施無畏の心境に達し得ていないと、真剣での命の斬りあいで「切落し」極意は使いこなせないという意味である。</p>

<p>ところで、鉄舟は、その死が翌年に迫った明治二十年（１８８７）に、四谷仲町の自邸で、門人の籠手田安定（県知事・男爵）等の求めで、ほぼ四回にわたって武士道に関する講義を行った。傍聴者に井上毅（文部大臣）、フランス人法学者ボアソナード、中村正直（文学博士）、山川浩（陸軍少将）等がいた。</p>

<p>その時の「山岡先生武士道講和記録」を安部正人が、籠手田安定から譲りうけて、明治三十一年（１８９８）十月、海舟にこれを示して「評論」を述べてもらい加えたものを一本にまとめて、嗣子山岡直記の序文と高橋泥舟の題字とをつけて「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」として光融館という本屋からＢ６判二五二頁の書物として発行したのが、明治三十五年（１９０２）一月のことである。</p>

<p>この内容について「山岡鉄舟の武士道」（勝部真長編）で次のように解説している。</p>

<p>「光融館版の『武士道』はかなり売れたらしく、わたくしの所蔵するのは明治四十五年七月の奥付で第九版をかぞえている。その後、昭和十五年頃には大東出版社から同じ『武士道』の新版が山岡未亡人の序文をつけて出された。</p>

<p>とにかくこの本は一風変わった妙な本である。山岡鉄舟でなければ、やはり言えないような、独自な、突拍子もないようなことが飛び出してくる。見方によってはわがままな、断片的ともいえようが、しかしまた他面からいえば深い人格の、無意識底から湧き出してくる暗号のようにも受けとれる。</p>

<p>鉄舟という人は何よりも先ず『剣の人』である。禅もやったが、禅は剣を完成させるための手段、修業の方法の一つとしてやったので、禅をそれ自身目的としたのではない。剣を持たない武士はないから、武士道という以上、『剣の道』を離れてありえないわけである。</p>

<p>鉄舟がその生涯をかけて追究したのは『剣の道』であって、『剣の道』を通じてその人間を完成させていったのである。『剣』が完成しなければ『人間』も完成しない、というのが鉄舟の人生の課題であった。鉄舟が『武士道』について門人たちに講和しようという気持ちになれたのは、明治十三年にその『剣の道』が成就していたからで、もし鉄舟の無刀流が大悟発明されていなければ、とても武士道についてとくとくとおしゃべりなんかする気になれなかったに違いない」</p>

<p>この「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」を詳しく読みすすめると「真の武士道とは」が確認でき、「真の勤皇愛国とは」が理解され、「誰が明治維新の大事業」をしたのかが解明され、その結果として福沢諭吉が主張した「痩せ我慢」は、鉄舟からみれば極々小さな問題だという事になってしまう。それを次号でお伝えしたい。<br />
</p>]]>
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<title>2012年5月例会のご案内</title>
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<modified>2012-05-01T02:45:56Z</modified>
<issued>2012-05-01T02:41:55Z</issued>
<id>tag:www.tessyuu.jp,2012://1.477</id>
<created>2012-05-01T02:41:55Z</created>
<summary type="text/plain">2012年5月例会のご案内 5月は高橋育郎氏と山本紀久雄が発表いたします 　　 ...</summary>
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<name>Master</name>

<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2012年5月例会のご案内</p>

<p>5月は高橋育郎氏と山本紀久雄が発表いたします<br />
　　<br />
開催日　2012年5月16日（水）<br />
場所　　東京文化会館第二中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
会費　　1500円<br />
発表者　<br />
     ①　高橋育郎氏<br />
　　　　　　　ドイツ・カールスルーエ独日協会合唱団「フリーゲル」招聘と生涯現役人生の実践<br />
　　②　山本紀久雄<br />
               鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その三</p>]]>
<![CDATA[<p>5月は、童謡作詞家で「心のふるさとを歌う会」主催者である高橋育郎氏が、<br />
ドイツ・カールスルーエ独日協会合唱団「フリーゲル」と合同合唱会を8月26日に開催するにいたった経緯と、その背景に存在する生涯現役理念について併せて発表いただきます。<br />
鉄舟は正に「生涯現役」でした。同様に高橋氏の生涯現役実践からも学びたいと思います。</p>

<p>山本紀久雄からは、今まで誰もが十分になされていない「明治天皇業績への貢献」に関する研究アプローチ方法として以下の三項目検討を行ってまいりますが、5月はこの中の①について分析・解説申し上げたいと思っております。</p>

<p>	①　明治維新から四年までの明治天皇治世<br />
	②　侍従という立場は何を職務とするか<br />
	③　明治五年からの明治天皇治世</p>

<p><br />
2012年6月例会のご案内<br />
　　<br />
開催日　2012年6月20日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
会費　　1500円<br />
　　　発表者　山本紀久雄<br />
テーマ　引き続いて「鉄舟は明治天皇に何を教育したか」を考察いたしします。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>2012年4月開催結果</title>
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<modified>2012-05-01T02:37:07Z</modified>
<issued>2012-05-01T02:29:05Z</issued>
<id>tag:www.tessyuu.jp,2012://1.476</id>
<created>2012-05-01T02:29:05Z</created>
<summary type="text/plain">4月開催結果と2012年5月開催についてご案内申し上げます。 　　　　 １．20...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>4月開催結果と2012年5月開催についてご案内申し上げます。<br />
　　　　<br />
１．2012年4月開催結果<br />
　最初に現在、東京都写真美術館で開催されている「フェリーチェ・ベアトの東洋」展の紹介と、この会場に清河八郎暗殺犯の一人「窪田泉太郎」の写真が展示されていますので、窪田と鉄舟の因縁関係について解説いたしました。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/窪田泉太郎.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/窪田泉太郎.html','popup','width=318,height=400,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/窪田泉太郎-thumb.jpg" width="119" height="150" border="0" /></a></p>

<p>　上の写真は長崎大学付属図書館の収蔵写真ですが、タイトルは「「甲冑を着けた武士」となっています。ところが、今回のベアト展では「窪田泉太郎」と個人名で表示・明確化しました。</p>]]>
<![CDATA[<p>「窪田泉太郎」となれば鉄舟と関係があります。泉太郎の父は窪田冶部右衛門であって、清河・鉄舟の「虎尾の会」の盟約者。その息子の泉太郎は清河が横浜焼き打ち計画をつくり、横浜へ下見に行った時の神奈川奉行所組頭。</p>

<p>そこで、清河は冶部右衛門を通じ泉太郎に紹介状を書いてもらい、鉄舟と斎藤熊三郎（清河の弟）、西恭介の四人で横浜に出かけております。</p>

<p>しかし、何故にこの泉太郎が清河暗殺団の一員に加わったのか、それについては山岡鉄舟会ホームページ２０１０年４月「鉄舟研究・清河暗殺・・・其の三」をご覧いただきたいと思います。</p>

<p>http://www.tessyuu.jp/archives/2010/04/post_297.html</p>

<p>なお、写真タイトルの変更経緯につきまして、東京都写真美術館に詳しい内容をお聞きしましたので、５月例会でお伝えいたします。</p>

<p>次に、3月特別合宿例会で、川上貞雄氏から紹介された佐久間象山の直筆長文書翰、これは吉田松陰の海外渡航事件と、ジョン万次郎にも関わる考察を入れて、安政元年(1854)に幕府要人に差し出したものですが、この書翰は思想家としての象山が辿った思索の足跡を示す重要なものです。</p>

<p>つまり「象山があるときは鎖国を主張し、あるときは和親に転じ、あるときは開国に転じたように、情勢の急激な展開にともなって、さまざまな思想変化を示す切っ掛けとなった」もので、ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられる」と判じていることへつながっている経緯についても解説いたしました。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tessyuu.jp/archives/2012/04/post_357.html" />
<modified>2012-04-08T06:00:03Z</modified>
<issued>2012-04-08T05:52:27Z</issued>
<id>tag:www.tessyuu.jp,2012://1.475</id>
<created>2012-04-08T05:52:27Z</created>
<summary type="text/plain">「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 前号に続く福沢諭...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>前号に続く福沢諭吉による榎本武揚批判に入りたい。<br />
静岡市清水区興津の清見寺境内にある「咸臨丸殉難諸氏記念碑」に、榎本が〈食人之食者死人之事〉と揮毫、読みは〈人の食（禄）を食(は＊む者は人の事に死す〉であり「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味となる碑を福沢諭吉が見て、幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りを爆発させたことは既にふれた。</p>]]>
<![CDATA[<p>では、何故にこのような常人感覚では書けない揮毫をしたのか。その解明の前に、この記念碑の設立経緯を紹介したい。</p>

<p>明治三年（１８７０）咸臨丸惨劇事件三周忌に建立された静岡市清水区巴河畔の「壮士之墓」で、清水次郎長は度々法要を営んでいた。<br />
　<br />
このあたりは江戸時代は罪人の処刑場で民家がなかったが、清水港の発展と共に人家が建ち始め、町となってきて、このままでは区画整理で墓が消滅する危険性もあるので、どこかに永久に保存できる記念碑をつくろうという案が出てきた。</p>

<p>　その土地探しを、当時の静岡県内務部長である永峰弥吉に委嘱したところ、明治十八年に場所を清見寺に選定したと連絡があり、榎本武揚や小林一知（文次郎・咸臨丸艦長）等が建碑願いを関係官庁に提出し許可を得た。</p>

<p>　碑石は根府川石（神奈川県小田原市根府川に産する輝石安山岩の石材名）で、高さ２．７ｍ、幅１．８ｍ余、厚さ０．１８ｍ。碑石の隣りに立つ春日形御影石の灯篭も準備できたので、明治二十年に清水港に運び、次郎長一家が総出で清見寺に運び込んだ。</p>

<p>　さて、問題の揮毫は、最初は当然のごとく榎本に依頼したが、当時、榎本は清国全権公使として北京に駐在中であったので、大島圭介（元陸軍奉行）に頼み〈骨枯松秀〉の篆(てん)額(がく)＊題字を書いてもらった。</p>

<p>ところが、記念碑の工事が終る頃になって、榎本が帰国したので、再び揮毫を願うと、問題の文言が示されたのである。結果として、表面は榎本の揮毫による〈食人之食者死人之事〉、裏面が篆額大鳥の〈骨枯松秀〉となった。大島の文言は、壮士の墓建設の際の山岡鉄舟の詩である</p>

<p>砂濶孤松秀　空留壮士名<br />
　水禽何所恨　飛向夕陽鳴</p>

<p>に因むものであった。</p>

<p>　では榎本の揮毫文の出典は何か。それは史記にある「淮(わい)陰(いん)侯(こう)列伝」からであり、淮陰侯とは韓(かん)信(しん)のこと。中国秦末から前漢初期にかけての武将で、劉(りゅう)邦(ほう)の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付け、張(ちょう)良(りょう)・蕭(しょう)何(か)と共に劉邦配下の三傑の一人で、世界軍事史上の名将としても知られるが、「韓信の股くぐり」でも知られている。<br />
それは、ある日のこと、韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していた。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる<br />
　<br />
この韓信に対して項羽が説客(ぜいかく)（弁論が得意で諸侯にその意見をといてまわる役割人物）の蒯(かい)通(つう)を遣わし、漢王を裏切るよう説得したときに、次のように答えた。</p>

<p>「漢王（劉邦）は私を非常に優遇してくださる。漢王は私を自分の車に乗せ、自分の衣服を着せ、自分の食事を勧めてくだされた。<br />
『乘人之車者載人之患、衣人之衣者懷人之憂、食人之食者死人之事』<br />
（人の車に乗った者は、その人の心配を背負い、人の衣服を着た者は、その人の悩みをともに抱き、人の食事を食べた者は、その人の為に死ぬ）<br />
という言葉を先生も知っておられよう。私は、利に転び、義に背を向けることはできない。」<br />
　<br />
この韓信の言葉を榎本は敢えて選んだのである。だから福沢は怒ったのであるが、榎本が自ら求め書いたのであり、何かの背景があると思量するのが至当と思うが、肝心の榎本は福沢からの手紙に対して「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば云々との御意、拝承いたし候。昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候」とだけで、その後何も言わずに人生を終えている。</p>

<p>　しかし、ここは大事なところであるので、榎本に代わって分析してみる必要があるだろう。そこで、もう一度榎本の一生を概略振り返ってみたい。</p>

<p>　御家人の子として江戸に生まれ育った榎本は、昌平坂学問所を卒業したのち、幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入る。その後、オランダ留学で知識に加えて西欧の考え方もマスターし戻った。帰国後、戊辰戦争の最後の戦いになった函館戦争で五稜郭に籠り、降伏、幽閉を経て出獄、請われて北海道開拓使として明治政府に入り、初代駐露公使とし、樺太・千島交換条約の締結に尽力。</p>

<p>　伊藤博文内閣では逓信大臣、以降、文部、外務、農商務大臣等の要職を歴任。日本化学会、電気学会、気象学会、家禽(かきん)＊協会等の設立に関わり、初代の会長として、日本の殖産興業を支える役回りを積極的に引き受けている。</p>

<p>　さらに、既に紹介したように辰之口牢獄での技術分野に対する高い関心と実験等、これらは榎本が実証主義者であることを証明している。その事例として挙げられるのは、駐露公使から帰任する際にシベリアを四十五日間かけて横断し、軍事、経済、民族等の情報を記録した「西比利亜（シベリア）日記」を残しているが、このような外交官が現在いるのであろうか。</p>

<p>　また、明治天皇は榎本に対して、頻繁に意見を求めたと言われ、明治二十四年（１８９１）に発生したロシア皇太子が警備の警官に斬りつけられた「大津事件」の処理をめぐっては、急遽外務大臣に任命され、ロシアとの折衝に乗り出している。若き時代の西洋留学体験と駐露公使、その体験を実証的に発揮せしめたのである。</p>

<p>このように明治時代の日本近代化に高く貢献した人物である。仮に、福沢が「痩せ我慢の説」で述べた「この種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」というような生き方を送ったとしたら、日本は大きなマイナスを受けたであろうことは容易に推測がつく。</p>

<p>実は、福沢もこの事を分かっていた節が強い。それは福沢が書いた「明治十年丁(てい)丑(ちゅう)公論(こうろん)」に榎本についてふれている個所がある。だが、その前に、この丁丑公論の立場を明らかにしたい。</p>

<p>これが書かれたのは丁丑（ひのとうし）の年、干支の組み合わせ十四番目で、明治十年（１８７７）にあたる。ということは西南戦争（明治十年）の直後であるのに、公表されたのは明治三十四年（１９０１）二月の時事新報紙上であった。</p>

<p>何と、西南戦争から二十四年経過したタイミングと、福沢が亡くなった二月という時機であり、そこに何か政治的なものがあったと推測される。</p>

<p>その通りで、丁丑公論は「反政府（大久保利通）であり、親西郷隆盛」で書かれた論文なのである。明治３４年（1901）５月に『瘠我慢の説』と一緒に一冊の本に合本されて時事新報社から出版された。<br />
なお、時事新報主筆の石河幹明が序文を記し、掲載の経緯を述べている。</p>

<p>「丁丑公論の一書は福沢先生が明治十年西南戦争の鎭定後、直に筆を執て著述せられたるものなれども、当時世間に憚かる所あるを以て秘して人に示さず、爾來二十余年の久しき先生も自から此著あるを忘却せられたるが如し。余前年先生の家に寄食の日、竊(ひそか)に其稿本を一見したることあり、本年一月先生の旧稿瘠我慢の説を時事新報に掲ぐるや、次で此書をも公にせんことを請ひしに、先生始めて思ひ出され、最早や世に出すも差支なかる可しとて其請を許されぬ。依て二月一日より時事新報に掲載することとせしに、掲載未だ半ならず先生宿痾(しゅくあ)再発して遂に起たず、今回更らに此書を刊行するに際し一言、事の次第を記すと云ふ <br />
明治三十四年四月　　時事新報社に於て　　石河幹明」</p>

<p>　この丁丑公論は激しい大久保批判で、執筆完了の明治十年十月二十四日に、直ちに発表していたならば、福沢は国賊として陥れられ、西郷の同調者であり、味方であると断定され、死刑となっていたかも知れない。そのような事態となっていれば、当然のことながら慶応大学は廃止され現在の姿はなかったであろう。</p>

<p>　それほどの内容であるので、その一部を紹介したい。まず、最初の緒言である。<br />
「政府の專制咎(とが)む可らずと雖も、之を放頓(ほうとん)すれば際限あることなし。又これを防がざる可らず。今これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に專制の行はるる間は、之に対するに抵抗の精神を要す。其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。</p>

<p>近来日本の景况を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し。苟も憂國の士は之を救ふの術を求めざる可らず。抵抗の法一樣ならず、或は文を以てし、或は武を以てし、又或は金を以てする者あり、今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然すべきものなし」</p>

<p>　「明治七年内閣の分裂以來、政府の権は益々堅固を致し、政権の集合は無論、府県の治法、些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし。人民は唯官令を聞くに忙はしくして之を奉ずるに遑(いとま)あらず」<br />
　「佐賀の乱の時には断じて江藤を殺して之を疑はず、加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其場所に於て刑に処したるは之を刑と云ふ可らず、其の実は戦場に討取たるものの如し。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典（点）と云ふ可し」</p>

<p>　如何でしょうか。明らかに正面きっての政府批判であり、大久保利通への批判なのです。大久保は明治六年（1873年）に内務省を設置し、自ら初代内務卿（参議兼任）として実権を握り、明治六年秋から明治十一年五月大久保暗殺までは、一般に「大久保政権」と呼ばれ、当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判されていた。</p>

<p>「有司」とは政府官僚を指し、議会政治によらず彼らの合議だけで国家の方針を決めている現状を指摘したものだが、現在に至るまでの日本の官僚機構（霞ヶ関官界）の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれているほどである。</p>

<p>　いずれ西郷と鉄舟の関係、特に西南戦争前、明治天皇から西郷を東京に連れ戻すようにと、鉄舟が命を受けたと一般的に言われ、実際に鹿児島に赴いているが、そこで西郷と実際に会ったかどうか。その点は今後の研究課題であるが、明治天皇紀の明治七年（１８７４）三月二十八日に「鉄太郎、四月二日を以て鹿児島に着し、三日、久光の邸に至りて勅命ならびに恩賜の菓子を伝う」とある。</p>

<p>この時期、島津久光は内閣顧問であった。かつて廃藩置県を久光に相談なく実施、激怒し、西郷は勿論それまで久光の側近であった大久保に対しても憎悪の対象であっが、いつの間にか久光を内閣に入れていた経緯、そこに今日の官僚制度の根源問題にまでつながっていると思われる節もあるので、これについてもふれたいが、今回はこのあたりで福沢の丁丑公論分析を終えたい。<br />
　<br />
しかし、どうしても不可思議なことがある。榎本に対する福沢の記載個所文言である。丁丑公論の中に榎本に対する評価ともいえる文言が、以下のように記されているのである。</p>

<p>「猶維新の際に榎本の輩を放免して今日に害なく却て益する所大なるが如し」</p>

<p>　この丁丑公論が書かれた明治十年までの榎本は、明治五年一月に辰之口牢獄から出獄、三月には北海道開拓四等出仕に任官される。四等出仕とは県知事クラスである、人力車付という身分である。明治七年には海軍中将の肩書で、特命全権公使としてペテルブルグ赴任、明治八年には国境画定交渉をまとめ、樺太・千島交換条約に調印する役割をこなした。熾烈な外交交渉の結果であり、榎本のもつ海外留学経験が大いに発揮されたのであって、この事実を福沢は知っていて、丁丑公論の文言となったと思われる。つまり、この時点では榎本を高く評価していたのであって、痩せ我慢の説の評価とは大きく異なっている。</p>

<p>　更に問題なのは〈食人之食者死人之事〉である。福沢はこの言葉を丁丑公論で以下のように使っている。<br />
　「近く其実証を挙れば、徳川の末年に諸藩士の脱藩したるは君臣の名分を破りたる者に非ずや、其藩士が甞て藩主の恩禄を食ひながら廃藩の議を発し或は其議を助けたるは、其食を食(はん)で其事に死するの大義に背くものにあらずや。<br />
然り而して世論この脱藩士族を評して賤丈夫と云はざるのみならず、当初其藩を脱すること愈過激にして名分を破ること愈果斷なりし者は、今日に在て名望を收むること愈盛なるが如し」</p>

<p>久光の廃藩反対の意向を知りながら、断行した廃藩置県、西郷と大久保は〈人の食（禄）を食(は)む者は人の事に死す〉には当らないと言っているのである。とするならば、幕府から家禄をもらっていた榎本であっても、新政府に仕え、国家貢献に立派な業績をのこせば問題がないのではと、丁丑公論からは読み取れるのである。</p>

<p>ここで榎本の心情を推察してみたい。自分は何故にオランダに留学させられたのか、それは日本の近代化を進めるためであったはず。当時は幕臣という身分ではあったが、新しく明治時代になって近代化が急務の時、自分の本来目的に戻ることが、国家への貢献であると認識し直したのではないか。幕府には函館戦争で最後まで戦ったことで義理は果たした。</p>

<p>これからはこの時代の日本人に欠けていた合理精神、技術者としてプラグマティブ思考で生きること。一度対決した明治政府であっても、ほかに日本の近代化を託すべき主体がない以上、その新政府のもとで近代化に向けて働くこと、そこに榎本は矛盾を感じていなかったと思う。</p>

<p>　では、どうして福沢は明治二十四年に敢えて「痩せ我慢の説」を書き、名指して海舟、榎本を批判したのであろうか。</p>

<p>　これは福沢の心理を考えてみないといけないだろう。福沢の使命は何であったのか。日本を文明国に導くことであったろう。国民の意識改革を、教育に力を入れ、民間の力を重視し、実学を奨励する等を通じ、いわば「啓蒙」活動に邁進してきたことは、その一連の著作から明らかである。</p>

<p>つまり、福沢は和魂(わこん)洋才(ようさい)を狙ったのではないか。しかし、それは明治二十四年ごろになってみると、日本古来の精神世界が忘れられつつあり、代わりに西洋の技術と精神をより受け入れる方向に向かっている。両者を調和させ発展させていくということが難しい。欧化主義が行き過ぎているのではないか。その警句を世間に伝えようとして、強いて「痩せ我慢の説」を書き、その対象として旧知の海舟と榎本を取り上げたのだと思われてならない。</p>

<p>　しかし、取り上げられた海舟と榎本は、いずれも修羅場をくぐりぬけてきた人物である。</p>

<p>　「自分の行動は当事者でないと分かるものでない。たとえ説明したとて理解されずに、弁解と取られる。自分は信念で行動したのであり、恥じることは何もしていない。自分の行動のみが自分自身である」と海舟と榎本は言いたかったのだろうと思う。</p>

<p>　最後に、「痩せ我慢の説」について多くの識者が解説している。だが、おかしいことに多くの資料を集めて見て分かったことは「丁丑公論」にふれていないことである。すべての資料を検討したわけでないので断言できないが、「丁丑公論」との関係が検討されていない。それは何故だか分からない。何かあるのだとしたら、今後の研究課題として行きたい。</p>

<p>　次号は、「痩せ我慢の説」で何故に鉄舟が批判されなかったのか、その理由を解明する。<br />
</p>]]>
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<title>「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四</title>
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<summary type="text/plain">「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 江戸無血開城以後...</summary>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>江戸無血開城以後、恭順一筋で押し通した徳川藩は、慶応四年（１８６８）五月二十四日に駿府藩として禄高七十万石と新政府から通告され、藩主家達も八月十五日に駿府に到着、何とか安泰となって一応ホッとしたタイミングに大事件が発生した。</p>]]>
<![CDATA[<p>それは、藩の命令を無視し脱走した榎本武揚艦隊の咸臨丸が、損傷激しく満身創痍で航行不可能となり、駿府に近い清水港に九月二日たどりついたことである。</p>

<p>咸臨丸艦長の小林文次郎から、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届けがあり、器材が陸揚げされ、咸臨丸は港内に停泊し、乗員は三保の民家などに宿泊した。</p>

<p>これは困ったことだと思案に暮れているところに、さらに、清水港を血染めにする大惨劇が勃発した。<br />
九月十八日、新政府が追捕のため派遣した軍艦富士山・飛竜丸・武蔵丸の三隻が、柳川藩士他数十名乗せて、午後二時ごろ清水港に入ってきたのである。</p>

<p>この日、艦長の小林は駿府藩に出向き留守、咸臨丸には副長の春山弁蔵と弟の鉱平、長谷川徳蔵ら少人数が留まっていた。</p>

<p>新政府追捕隊は咸臨丸を確認すると、１０間（１８メートル）の至近距離から各艦５～６発撃ちはなった。咸臨丸は駿府藩からの命もあって、戦うつもりはなく、降伏のしるしに白旗を上げた。それを見た追捕隊士達は、小艇に乗り移り小銃を撃ちながら漕ぎよせ、抜刀し咸臨丸に上ると、まず、長谷川徳蔵を血祭りに上げ、春山兄弟に銃を向けた。</p>

<p>「待たれい。駿府藩からこの咸臨丸を大総督府に献上するよう厳命を受けております」<br />
副長の春山弁蔵は穏やかに対応しようとしたが、<br />
「何を申す。この大泥棒め！！。朝廷の軍艦を盗むとは不埒千万、罰は万死に値する」<br />
と猛り立つ追捕隊士の暴言に怒った弟の鉱平が抜刀、乱戦となって春山兄弟が斬られる。<br />
それを見た原秀郎は艦を爆沈させ追捕隊士達を道連れにしようと、同様に考えた加藤常次郎と一緒に火薬艙へ降り向かった。だが、火薬艙の鍵は艦長の小林が持っていて、仕方なく二人は散らばっている火薬を集め、扉の下隙へ入れて点火したが失敗。中の火薬まで火が届かない。<br />
火薬庫が爆発することを怖れて、いったんは本船に逃げた追捕隊士が、火が出ないことを見て、また戻って咸臨丸の甲板に上がった。</p>

<p>そこに駿府で用事を終えた艦長の小林が、何事かと小舟で咸臨丸まで来て名乗ると、甲板に引き上げ、両手を縛って殴る蹴る踏みつける乱暴狼藉。小林は倒れ気絶し、十数人とともに捕らわれ追捕軍艦に運ばれた。</p>

<p>だが、春山弁蔵は首を打ち落され、他の死骸と一緒に海に投げ捨てられ、新政府追捕軍艦飛竜丸が咸臨丸を曳き清水港を出ていったのが午後五時であった。</p>

<p>この惨劇については海舟も「幕末日記」の九月二十一日に記している。<br />
「駿州より早追にて御目付来る。咸臨丸を取巻たる官兵、肥前、土佐、柳川藩士、甚手荒く、風聞にては、春山弁蔵刃傷に及び、切害に逢ふ。経雄殿（中老服部綾雄であろう）、目付等、散々罵られ、既に害に逢はむとするの勢也と。是、去月己来(いらい)、脱艦御届も遅々、亦修覆に取掛等、其他種々不都合を御咎めこれ有という。嗚呼、諸役因循(いんじゅん)、身を致さずして私営に苦しむ。我輩百方之を言うといえども、内破かくの如し。また如何せむ」</p>

<p>新政府追捕隊による一方的な惨劇の一部始終を、清水の人々は陸からみていたが、終った海には血潮と死屍が漂う凄惨な状態で、船の出入りも途絶え、漁に出るものもない。</p>

<p>また、賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから後難を恐れて誰も始末をしない。</p>

<p>しかし、侠客の清水次郎長は次のように述べた。<br />
「人の世に処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ若し、其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と。</p>

<p>要するに、死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか、国のために死んだ屍を見棄ておくのは、次郎長の任侠が許さず、港の機能が止まっていることも放置できず、子分を動員して浮屍を引き上げたのであった。</p>

<p>屍は七体。春山弁蔵、春山鉱平、加藤常次郎、長谷川徳蔵、長谷川清四郎、今井幾之助、他一名。これを巴川のほとり古松の下に懇ろに埋葬した。</p>

<p>この経緯はたちまちのうちに駿府城内に伝わり、城中の物議となった。そこに登場するのが鉄舟で、小倉鉄樹は「おれの師匠」で次のように述べている。</p>

<p>「藩政に参與していた師匠（鉄舟）は役目柄次郎長を呼んで糾問した。<br />
『仮初にも朝廷に対して賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのだ』<br />
もとより覚悟の次郎長は悪びれた景色もなく、<br />
『賊軍か官軍か知りませんけれども、それは生きている間の事で、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか、仏に敵味方はござりますまい。第一死骸で港を塞がれては港の奴らが稼業に困ります。港の為と思ってやった仕事ですが、若しいけないとおっしゃるなら、どうともお咎めを受けましよう』<br />
ときっぱり言い放った。</p>

<p>『そうか、よく葬ってやった奇特な志しだ』<br />
あまり簡単に賞められてしまったので、次郎長もいささか拍子抜けだ。<br />
『それならお咎めはございませんか』<br />
『咎めどころか、仏に敵味方はないという其の一言が気に入った』<br />
『有難うございます。そう承れば私も安心、仏もさぞ浮かばれましょう』<br />
喜んで帰った次郎長は、更に港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催した。師匠は求められるままに墓標をも認めてやった。大丈夫も及ばぬ次郎長の侠骨に喜んだとは言え此の際の処置として到底小人輩の出来る芸ではない。</p>

<p>現在清水市の中央を貫流する巴河畔に祀られてある「壮士之墓」は即ち之である」</p>

<p>この「おれの師匠」記述には補足が必要である。写真で分かるように「壮士墓」は石造り、建立は次郎長である。この墓碑が咸臨丸惨劇事件の屍埋葬後直ぐに建立されるはずがない。</p>

<p>その通りで、鉄舟から誉められ感謝された次郎長は、港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催したが、その時は次郎長の菩提寺である不二見村の梅蔭寺、現在、この寺には次郎長の墓をはじめ、妻のお蝶、子分の大政、小政の墓や遺品があり、また、侠客としては全国で唯一人、次郎長の銅像が建てられている。この梅蔭寺住職に頼んで法要を開いたのであって「壮士墓」が建立されたのは明治三年（１８７０）三周忌の際で、墓標は鉄舟が書いたといわれている。</p>

<p>なお、鉄舟と次郎長との出会いは、この咸臨丸惨劇事件がキッカケといわれ、その後の次郎長は鉄舟の影響を受け、人間的に脱皮し明治時代の社会事業家として名を残すことになるが、全国の一般大衆にまで知られるようになったのは「東海遊侠伝」からである。</p>

<p>「東海遊侠伝」とは、天田愚案によって明治十二年（１８７９）に「次朗長一代記」が書き残され、それが鉄舟宅に預けられていたが、明治十七年（1884）に「東海遊侠伝」として題画は鉄舟自身が描き、題字は勝海舟が担当するという豪華さで公刊され、後に神田伯山によって講釈(講談)化となり、伯山の車引きをしていた広沢虎造によって浪曲となって、昭和初期に「旅ゆけば～」で爆発的な人気を誇ったのは二代目広沢虎造で、当時は寄席のオーナーが虎造をひと月呼ぶことができれば別荘を持てたという。</p>

<p>それほど次郎長は有名になったわけであるが、そのブームを起こした「東海遊侠伝」と鉄舟の関係については後日詳しく触れたい。</p>

<p>さて、鉄舟と次郎長の最初の出会い、一般的に認識されているのはこの咸臨丸惨劇事件であるが、もう一つの説がある。</p>

<p>それは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家２３代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」（若杉昌敬編）で明確にされている。</p>

<p>また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏（国立歴史民俗博物館名誉教授）がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」（『清水次郎長と幕末維新』岩波書店）とあり、西郷と鉄舟による駿府会談に纏わる時が、次郎長との出会いであったという。（参照　本誌２００６年１月号）</p>

<p>この説に立ち、鉄舟と次郎長との関係を深読みすれば、咸臨丸惨劇の浮屍を引き上げたのは、鉄舟の指示によるものではないかと思われる。</p>

<p>旧幕臣であり、かつては同志であった屍を海に放置しておくことは、鉄舟の真情として許せない。しかし、鉄舟が表だって動けない。駿府藩の立場がある。そこで考えついたのが望嶽亭で世話になった侠客次郎長である。次郎長に万事やらせ、そのあと詰問するという体を装って駿府藩の面目を保ち、自らの気持ちの整理をする。</p>

<p>このように鉄舟の立場から推測してみたが、ここで疑問を持つのは次郎長の立場である。いくら強気をくじき、弱気を助ける侠客であっても、一介のアウトローであるのだから、何も権力背景もなく、時の新政府に逆らうことになりかねない屍を引き上げる作業をするであろうか。次郎長が侠気を超える、何かの権力を保持していないと取り組まないだろう。また、それがなければ鉄舟とて旧知の間柄であっても、指示し難いだろうと思う。</p>

<p>そこで次郎長の権力との結びつきを調べてみると、驚くべきことが分かった。次郎長は時の警察署長の職に任命されていたのであって、その経緯は次のとおりである。</p>

<p>慶応四年三月はじめに官軍が駿府に陣をおき、西郷が東征軍参謀として滞在した。これに先立ち二月に官軍の先鋒隊として浜松藩家老の伏谷如(ふせやじょ)水(すい)が駿府町差配役、今でいう民政長官に任命されていた。</p>

<p>浜松藩は元々格式高い譜代藩で、天保の改革を行った老中・水野忠邦は浜松藩主。水野は元々九州唐津藩の藩主であったが、唐津藩では老中になれないので、実封二十五万三千石の唐津から実封十五万三千石の浜松藩への転封を、自ら願い出て実現させ老中になったほどである。</p>

<p>この水野忠邦が失脚し出羽山形藩へ転封、浜松藩は井上家に代わって、幕末には井上正直が藩主で、この時の家老が伏谷如水であった。</p>

<p>その如水が駿府一帯の治安を司るために白羽の矢を立てたのが次郎長。如水は次郎長を登用するにあたって、事前に十分調査したらしく、この男なら大丈夫と指名、断る次郎長に対し超法規的処置により、過去の罪科はすべて帳消し、帯刀を許したのである。</p>

<p>これで次郎長は駿府一帯の治安を預かる警察署長になったわけで、この状態が徳川家の駿府藩なっても同様職務を務めていた。</p>

<p>という意味は、次郎長が警察署長であるならば、事件の処理を担当するため、鉄舟から機密費を受取り、それで清水港内の屍を拾い上げ埋葬するのは当然の業務となる。しかし、これが表面に出ては、新政府に対して申し開きが立たないので、鉄舟と次郎長とで芝居を打ったというのが本当のところではないだろうか。</p>

<p>また、鉄舟の駿府掛けで、望嶽亭主人が官兵から鉄舟を救い、次郎長に連絡取って、西郷への会談へ結びつけたという説も、次郎長が駿府一帯の警護役としての警察権を掌握しているという前提で考えれば頷けられる。</p>

<p>ところで、鉄舟は巴河畔の「壮士墓」墓碑を次郎長に書いたが、その際に次の詩も与えている。<br />
砂濶(ひろ)くして孤松秀(ひい)ず<br />
空しくとどむ壮士の名<br />
水禽(みずとり)何をか恨むところぞ<br />
飛んで夕陽に向かって鳴く<br />
また、別に唐紙に髑髏(どくろ)を描き、「生無一日歓、死有万世名（生きて一日の歓びなく、死して万世の名有り）」と賛し贈った。</p>

<p>さて、この咸臨丸惨殺事件から二十年、巴川の「壮士墓」建立から十七年後の明治二十年（１８８７）、清見寺(せいけんじ)（静岡市清水区興津）に榎本武揚が揮毫した「咸臨丸殉難諸氏記念碑」が建てられたことは既にふれた。</p>

<p>また、この〈人の食（禄）を食(は)む者は人の事に死す〉という意味の揮毫、これを福沢諭吉が見たことから「痩せ我慢の説」を書くキッカケになったのではということもふれた。</p>

<p>では何故に、榎本は「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味になる文言を揮毫したのか。榎本も幕臣であった。常人感覚なら書けないし、書かないであろう。福沢が怒るのが当たり前である。この解明は次号へ。<br />
</p>]]>
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<title>2012年4月例会のご案内</title>
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<issued>2012-03-24T03:02:14Z</issued>
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<summary type="text/plain">2月に引き続き「鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その二」をテーマに発表いたし...</summary>
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<name>Master</name>

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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2月に引き続き「鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その二」をテーマに発表いたします<br />
　　<br />
開催日　2012年4月18日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
　　　発表者　山本紀久雄<br />
テーマ　鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その二</p>]]>
<![CDATA[<p>司馬遼太郎氏は天皇という存在や制度について、極力ふれないというのが方針ですが、山崎正和氏との対談では明治天皇をテーマに取り上げ、その中で鉄舟についても語っています。（司馬遼太郎対話選集４　近代化の相克）</p>

<p>「あの人（明治天皇）の好きな人は、山岡鉄舟、元田永孚、西郷隆盛、乃木希(まれ)典(すけ)で、きらいなのは山県有朋、黒田清隆です。要するに男性的な人物が好きだったようですね」</p>

<p>また、別の講演の中でも次のように語っています。</p>

<p>「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」</p>

<p>　さすがに司馬遼太郎の鉄舟像は正鵠を射ています。</p>

<p>明治天皇と鉄舟の縁は、明治五年（1872）六月に侍従となったことからはじまり「天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか」（山内昌之東京大学教授）といわれるように、明治天皇に対する貢献は大きいと思われますが、それを具体的かつ客観的に解説することはかなり難しいのが実態です。</p>

<p>つぶさに今まで世に出ている鉄舟関連諸資料を検討しても、明治天皇の輝かしい名声に見合う業績に、鉄舟が具体的に関与していたという証拠になるものは少なく、伝説的な逸話が殆どです。</p>

<p>また、2012年2月1日、ＮＨＫで放映された「歴史秘話ヒストリア」でも、天皇と相撲をとったことと、アンパンを献上した件が「明治天皇教育」のエピソードとして紹介されていましたが、これで明治天皇への貢献が十分説明できたのか、疑問が残るところです。</p>

<p>したがって、これから例会で検討展開していく「明治天皇業績への貢献」に関与する鉄舟研究内容は、今までの鉄舟研究者の誰もが取り上げていない難しいことへの挑戦であり、それだけに研究アプローチ方法を妥当に採らねばならないと思っております。</p>

<p>そこで、まずは例会でどのような「研究アプローチ」を採ればよいのか、というところからお話申しあげてから、そのストーリーに基づき何回かに分けて研究結果を申し上げたいと思っております。</p>

<p>正に、鉄舟研究のハイライトというべき正念場に至ったわけで、この壁を超えないと鉄舟の素晴らしさを世に広くにお伝えできないと覚悟してります。</p>

<p>2012年5月例会のご案内<br />
　　<br />
開催日　2012年5月1６日（水）<br />
場所　　東京文化会館第二中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
発表者　山本紀久雄<br />
テーマ　鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その三<br />
　<br />
　引き続いて「鉄舟は明治天皇に何を教育したか」を考察いたします。</p>

<p><br />
</p>]]>
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<title>2012年3月例会開催結果</title>
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<modified>2012-03-24T02:59:38Z</modified>
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<summary type="text/plain">3月例会開催結果についてご案内申し上げます。 　　　　 3月17日(土)18日(...</summary>
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<name>Master</name>

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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>3月例会開催結果についてご案内申し上げます。<br />
　　　　<br />
3月17日(土)18日(日)二日間の特別合宿例会は、16名のご参加で、新潟県阿賀野市出湯（でゆ）温泉の川上貞雄氏邸にて開催いたしました。</p>]]>
<![CDATA[<p>17日14時30分新潟駅に集合。川上貞雄氏のお出迎えを頂き、小雨の中、宿泊する清廣館のバスにて瓢湖に向かいました。瓢湖は寛永年間につくられた用水池で、周囲わずか千二百三十メートルの小さな池ですが、昭和二十五年一月突然シベリヤより白鳥が渡来し始め、その後毎年最盛期には五千余羽がここで冬を越します。この日は白鳥737羽で、他に鴨がたくさんいました。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/006.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/006.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/006-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a><br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/005 (2).html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/005 (2).html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/005 (2)-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a></p>

<p> 　 <br />
出湯温泉に近づきますと正面に華報寺(けほうじ)が見え、その道端にはこの地で出土された石仏が此処彼処に何気なくおかれて、この出湯温泉の歴史の古さを示しています。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/018.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/018.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/018-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a><br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/019 (2).html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/019 (2).html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/019 (2)-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a></p>

<p>　さて、いよいよ川上貞雄氏邸宅の前に立ち、石門柱から向こうを見ると、<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/022.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/022.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/022-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a><br />
12町歩に及ぶ山麓邸宅と、山肌から清水が湧き噴き出て、邸内の池に流れ込んでいる様子、それと宿泊する「日本秘湯を守る会の清廣館」の源泉も川上邸から湧出しているように、素晴らしい自然景観に恵まれた環境下に位置していることが分かります。<br />
さらに、川上邸の庭に面した広い座敷に入った途端、ご参加の方々から一様に「ほー」というどよめきと、「すごい」という声でいっぱいになりました。<br />
それもそのはずで、中心に鉄舟・海舟・西郷書があり、さらに伊藤博文・山県有朋・前原一誠・土方歳三など、名前を挙げればキリがありませんが、かつて温泉名主旅籠であった同家で温泉療養した際に、書き残したものと言われております書が、骨董美術小物と調和をもって見事に美しく配置され、展示されていたからです。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/0071.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/0071.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/007-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a><br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/008.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/008.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/008-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a></p>

<p> 　 <br />
中でも圧巻は、佐久間象山の直筆長文書翰でした。吉田松陰の海外渡航事件について象山が安政元年(1854)に細書したもので、川上氏から解説を頂きました。<br />
 <a href="http://www.tessyuu.jp/archives/0121.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/0121.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/012-thumb.JPG" width="200" height="150" border="0" /></a><br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/011.html" onclick="window.open('http://www.tessyuu.jp/archives/011.html','popup','width=572,height=455,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.tessyuu.jp/archives/011-thumb.JPG" width="188" height="150" border="0" /></a><br />
 <br />
佐久間象山とは、ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられる」と判じているように、侍読の元田永孚(えいふ)（注　ながざねともいう）によって明治天皇に象山思想が深く関わっていますので、この点について4月例会で解説申し上げたいと思っています。<br />
遠く寒い新潟県山間部での開催でしたが、地元の方もご参加あり、大変盛況で活発な特別例会であったことをご報告いたします。<br />
川上貞雄様のご協力なくして開催できなかった例会でして、川上様に厚くお礼申し上げます。また、ご参加の方々、雨と寒い中、ご参加ありがとうございました。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>2012年3月例会案内</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tessyuu.jp/archives/2012/02/20123.html" />
<modified>2012-02-24T00:37:05Z</modified>
<issued>2012-02-24T00:30:28Z</issued>
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<summary type="text/plain">2012年3月例会 東京文化会館を離れ、3月１７日(土)18日(日)の二日間の特...</summary>
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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2012年3月例会</p>

<p>東京文化会館を離れ、3月１７日(土)18日(日)の二日間の特別合宿例会として、新潟県阿賀野市出湯（でゆ）温泉の川上貞雄氏邸にて開催いたします。宿泊は川上邸の隣に位置する日本秘湯を守る会の清廣館です。</p>]]>
<![CDATA[<p>ご参加お申し込みをいただきました14名の方には、具体的内容を郵送にてご案内申し上げますので、よろしくお願い申し上げます。</p>

<p>2012年4月例会のご案内</p>

<p>2月に引き続き「鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その二」をテーマに、山本紀久雄が発表いたします<br />
　　<br />
開催日　2012年4月18日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
発表者　山本紀久雄<br />
テーマ　鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その二</p>

<p>2月に続いて、鉄舟が明治天皇の侍従として「何故に明治天皇治世に貢献出来たのか」について検討いたします。</p>

<p><br />
</p>]]>
</content>
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<title>2012年2月開催結果</title>
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<modified>2012-02-24T00:30:02Z</modified>
<issued>2012-02-24T00:28:18Z</issued>
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<created>2012-02-24T00:28:18Z</created>
<summary type="text/plain">2012年2月開催結果 鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その一」につきまして...</summary>
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<name>Master</name>

<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2012年2月開催結果</p>

<p>鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その一」につきまして山本紀久雄が発表いたしました。<br />
まず、2月１日の ＮＨＫテレビ番組について皆さんとディスカッションいたしました。</p>]]>
<![CDATA[<p>次に、明治天皇を人格面、文化的素養面、軍隊統率者面の三方向から検討し、いずれにも優れた天皇であられた背景要因として、二つの改革　①廃藩置県　②　宮廷改革について分析し、鉄舟に対する三人の評価、東京大学・山内昌之教授、司馬遼太郎、高島鞆之助（陸軍大臣）を述べました。</p>

<p>なお今回、鉄舟が明治天皇にどのような影響を与えたのかを研究をしてみましたが、今までの研究が逸話中心で、山内教授の「明治天皇の統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、山岡鉄舟の存在に負うところが多い」という指摘の背景分析が十分に成されていないことに改めて気づきました。</p>

<p>その意味で、当会の鉄舟研究は新しい分野に入ったと認識しておりますが、大事なところですので4月例会に渡って発表することにいたします。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tessyuu.jp/archives/2012/02/post_355.html" />
<modified>2012-02-18T05:45:41Z</modified>
<issued>2012-02-18T05:39:55Z</issued>
<id>tag:www.tessyuu.jp,2012://1.469</id>
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<summary type="text/plain">山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 　福...</summary>
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<name>Master</name>

<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tessyuu.jp/">
<![CDATA[<p>山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>　福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を批判した。海舟への批判については、前号で分析したので、今号は榎本武揚について検討したい。</p>

<p>福沢と榎本は遠い親せき筋にあたる。その縁は福沢の妻「お錦」の関係からである。<br />
　文久元年（１８６１）、福沢は中津藩士・土岐太郎八の次女「お金」と結婚した。お金は以前は「おかん」という名であったが気に入らず、両親に頼んで「お金」に変えたが、今度は字がしっくりこず、福沢との結婚後は「お錦(きん)」＊と書くようになった。　このお錦の実家である土岐家と、榎本の母の実家である林家は遠い縁戚筋であった。</p>]]>
<![CDATA[<p>明治二年（１８６９）五月、五稜郭の戦いで榎本は降伏し、戊辰戦争が終ったが、この当時、榎本の母は息子の消息が分からず、必死で尋ね歩いていた。</p>

<p>ここで榎本が、函館五稜郭で降伏するまでの経緯を簡単に振り返ってみたい。明治元年（１８６８）榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送したが、その翌月の八月、新政府軍（官軍）に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が徳川家の成行き、慶喜の駿府への移転を見届けてから脱走を図ったものであるが、この艦隊に咸臨丸が含まれており、この咸臨丸が座礁、台風に翻弄され清水港まで漂流し、辿り着き、乗組員が官軍に殺傷されこと、それが前号で紹介した清水の清見寺にある『咸臨丸殉難諸氏記念碑』と碑文〈食人之食者死人之事〉につながっていて、ここを訪れた福沢が碑文を読んで、怒り心頭に達し、「痩せ我慢の説」を書くキッカケとなったのである。</p>

<p>さて、八月に陸奥に向かった榎本艦隊は、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、十月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。</p>

<p>榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」（国家に準じる統治主体）であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。</p>

<p>これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。</p>

<p>この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治二年五月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、十八日に至って「交戦団体」の首脳である四名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請うたのである。</p>

<p>降伏後、榎本は政権首脳とともに、辰之口牢獄（現・パレスホテルあたり）に収監されたが、この経過を知らない静岡在住の榎本の母は、息子の消息を知ろうと何度も東京の親戚に手紙を出して、必死の捜索をしていた。しかし、多くの親戚は、みな自分に危険が及ぶ可能性があると思い、梨の礫であった。</p>

<p>その状況がお錦を通じて福沢に伝わって、福沢は母に同情し、榎本は辰之口牢獄に入っており、生命は無事であることを母に伝えたのである。</p>

<p>すると母と姉が福沢を頼って上京してきて、福沢の屋敷に泊まり、牢屋にいる息子に弁当や必要と思われるものを差し入れし、面会したいとすがる親心に、福沢は「この母を身代わりにして殺してくれ」というような鬼気迫る「哀願書」を下書きしてあげ、新政府に願いださせた。</p>

<p>この「哀願書」が牢役人の心を動かしたのか、何とか母子の面会が許され、次の目標は赦免に向かった。</p>

<p>そこで福沢は、文久元年十二月に遣欧使節竹内下野守に従い、翻訳方として渡欧した際に同行し、その後も密接な関係にあった松木弘安、明治になって外交官として活躍した後の寺島宗則であるが、この寺島から薩摩出身の官軍参謀長である黒田清隆を紹介受け面会したのである。</p>

<p>その黒田に向かって、福沢は榎本のために熱弁をふるった。</p>

<p>「榎本は新政府に対し反乱した人物であるが、命だけはとらぬようにした方が国家のために得である。この写真を参考までに差し上げるので、じっくりご検討お願いしたい」というようなことを述べ、アメリカの南北戦争で勇名を馳せた南軍のロバート・リー将軍の写真を渡した。</p>

<p>南北戦争もアメリカ国内の戦い、いわば戊辰戦争と同じ国内戦争、南軍が敗退したがリー将軍は助命されている。遺恨をのこさないよう、敗者への対応は寛大にすべきだという趣旨で黒田を諭したのである。</p>

<p>この黒田への福沢の説得が功を奏し、榎本は赦免されることになった。榎本は福沢に感謝し尽くしても、し尽くせないと思われたが、しかし、ここで意外な結果を生むことになる。それを北康利著「福沢諭吉　国を支えて国を頼らず」（講談社）から引用しよう。</p>

<p>「釈放される少し前、榎本は恩知らずな手紙を姉・観月院に出しているのだ。</p>

<p>〈お借りした本は福沢程度の学者が翻訳したものですから、私がわざわざ読むほどのものではありません。それにしても、彼が無遠慮にいろいろ言っているのが耳に届いてきて、高慢ちきだと一同大笑いいたしました。（中略）もうちょっと学問のある人物かと思っておりましたが、案外だとため息をつき、これくらいの見識の学者でも百人余の弟子がいるとは、わが国もまだまだ開化が進んでいないと思い知るべきでしょう〉</p>

<p>そこには信じがたい忘恩の言葉が並んでいた。諭吉のような身分の低い者が自分を助けてくれるなどとは片腹痛いということだったのかもしれないが、それにしても謙虚さや感謝の心のかけらもない」<br />
このような過去の伏線経緯もあって、清見寺の碑文を見た瞬間、福沢は怒ったのである。</p>

<p>では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。（『日本の名著╱３３福沢諭吉・痩せ我慢の説』中央公論社）</p>

<p>≪勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、あくまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽くし、政府の軍艦数艘を率いて函館に脱走し、西軍に抗して奮戦したけれど、ついに窮して降参したる者なり。このときに当たり、徳川政府は伏見の一敗また戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして、人心すでに瓦解し、その勝算なきはもとより明白なるところなれども、榎本氏の挙はいわゆる武士の意気地すなわち痩我慢にして、その方寸の中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたことなれば、幕臣また諸藩士の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従って進退をともにし、北海の水戦、函館の籠城、その決死苦戦の忠勇はあっぱれの振舞いにして、日本(やまと)魂(たましい)の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同じゅうして語るべからず。</p>

<p>しかるに脱走の兵、常に利あらずして勢いようやく迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督をはじめ一部分の人々はもはやこれまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運のつたなきものなれども、成敗は兵家の常にしてもとより咎(とが)むべきにあらず。新政府においてもその罪をに悪(にく)んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは、文明の寛典と言うべし。氏の挙動も政府の処分もともに天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免ののちさらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、わが輩の感服すること能(あた)わざるところのものなり≫</p>

<p>≪氏は新政府に出身してただに口を湖するのみならず、累遷立身して特派公使に任じられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志、達し得てめでたしといえども、顧みて往時を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを＊恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん≫</p>

<p>≪古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ≫</p>

<p>≪これわが輩が榎本氏の出処につき所望の一点にして、ひとり氏の一身のためのみにあらず、国家百年の謀(はかりごと)において士風消長のために軽軽看過すべからざるところのものなり≫</p>

<p>この「痩我慢の説」による榎本への批判についても、筋が通っており成程と思う。<br />
しかし、いくつかの疑問が残る。その第一は福沢がアメリカ南軍のリー将軍の例を持ち出し、<br />
助けるよう黒田清隆を諭した事実の意図である。</p>

<p>当時の新政府は人材不足であった。それまでは徳川幕府の長い政治体制下で、薩摩・長州藩等は幕府政治に深く関与していなかったので、実際に日本国政治を担当するようになって、様々な問題対応能力において大きな齟齬をきたしていたので、優れた人材は喉から出るほど欲しかった。</p>

<p>特に欧米滞在経験のある人材は、諸外国との外交問題、国内体制の近代化に必要不可欠であり、その代表的人物として渋沢栄一を２０１１年１１月号で挙げた。渋沢は、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、ヨーロッパ各国で先進的な産業・軍備を実見した。当時としては稀有の体験を持った人物であり、新政府に抜擢され、その後の活躍によって「日本資本主義の父」といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人となった。</p>

<p>これに対し、榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学（化学）などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年の２７歳から、慶応三年（１８６７）３２歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。</p>

<p>続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。</p>

<p>さらに、辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。</p>

<p>兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。</p>

<p>この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、日本人の通常ではないか。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最後であったと思う。</p>

<p>榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。</p>

<p>五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去り、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。</p>

<p>確かにその通りで、その後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。</p>

<p>さらに加えて分析してみると、辰之口牢獄での行動から判断されるのは、この人物は何か一般人とは別次元基準で生きているということである。</p>

<p>実は、福沢はこの榎本の実体、何か通常の日本人とは異なる次元、知識の幅と深みを併せ持つ「万能型」テクノクラートであることを、事前に理解していたからこそ、榎本は日本の近代化に欠かせない人材だと、リー将軍の事例を黒田清隆に示したのではないかと思われる。</p>

<p>ところが、清水を訪れ清見寺で〈食人之食者死人之事〉を見たことで、赦免前の恩知らずな手紙のことを思い出し、併せて、新政府内での華やかな栄進出世ぶりを考えると、これは、敢えて一言批判を述べないといけないという覚悟につながり、批判としての「痩我慢の説」を展開したのではないか。そのように推測する。</p>

<p>さて、もう一つの疑問は重要である。榎本は何故に〈食人之食者死人之事〉という揮毫、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる文言を、どうして咸臨丸殉難諸氏記念碑に書き込み、刻んだのかということである。</p>

<p>榎本が幕臣であったことは当時の誰もが熟知しているのであるから、普通感覚ならこのような文言は書けないし、書かないであろう。福沢でなくとも怒るのが当たり前である。</p>

<p>だが、堂々と衆人が集まる寺社の境内に揮毫している事実。榎本は、それほどの非常識人なのであろうか。それとも何かの意図があって行ったのか。</p>

<p>これについては福沢への返書に「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば」とあるのみで、他には何も残さずに世を去ったので、何が背景にあるのか榎本の記録からは出てこない。筆者が分析してみるしかないが、そのためには、清見寺境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』が建てられたその咸臨丸事件から見ていかねばならない。</p>

<p>ここで鉄舟と次郎長が登場する。清水の次郎長、後に東海道一の大親分として世間に知られるようになった、そのキッカケはこの咸臨丸事件からである。</p>

<p>ここで改めて、咸臨丸のことを思い起こせば、この艦はまことに数奇な運命にもてあそばれている。長崎の海軍伝習所で訓練を始めた幕府は、嘉永六年（１８５３）にオランダに軍艦を発注した。当時、ロシアとトルコの戦争のため、中立国のオランダは外国向けの建艦を控えていたため、四年後の安政七年（１８６０）にようやく長崎港に現れた。</p>

<p>この咸臨丸を有名にしたのは、日本人初の太平洋横断を成し遂げたことからであった。その後、幕府の軍艦として活動していたが、既に述べたように榎本が新政府軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦を率いて、陸奥に向かって脱走した際も、艦隊に咸臨丸が含まれており、暦では八月でも閏年なので、もう秋に入っていて、台風に遭遇し、観音﨑で暗礁に乗り上げ、それまで回天丸に曳航(えいこう)されていたが、曳綱を断って、風浪のままに漂流し大マストも切り倒すまでになり、常州那珂港沖から三宅島近くを流され、二十九日にようやく下田港にたどりついたのである。</p>

<p>下田港の名主と小田原藩は、咸臨丸が港に入ったことを新政府に届け出た。新政府は肥前藩海軍に「徳川の脱艦、下田港漂着につき、処置すべし」との命を下し、追捕のために軍艦三隻と柳川藩士他数十名乗せて、咸臨丸逮捕に向かった。</p>

<p>咸臨丸は新政府が追捕に向かっているとは知らず、下田から清水港に入り、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届け出た。駿府藩では大騒ぎである。榎本が脱走したことも大騒ぎであったが、そこに脱走したはずの咸臨丸が徳川の本拠地に戻って来たのである。</p>

<p>この騒ぎに現れたのが鉄舟であり、次郎長であった。次号に続く。<br />
</p>]]>
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<title>　痩我慢の説と鉄舟・・・その二</title>
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<summary type="text/plain">山岡鉄舟研究　痩我慢の説と鉄舟・・・その二 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 明治２４...</summary>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>山岡鉄舟研究　痩我慢の説と鉄舟・・・その二<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>明治２４年（１８９１）に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。<br />
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。<br />
①	敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。<br />
②	維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。</p>]]>
<![CDATA[<p>この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。</p>

<p>明治五年（１８７２）海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年（１８７３）には参議海軍卿、明治八年（１８７５）四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。</p>

<p>明治二十年（１８８７）に伯爵、翌明治二十一年（１８８８）枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年（１８８９）憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。</p>

<p>だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」（文芸春秋）で指摘しているので紹介したい。</p>

<p>「明治七年（１８７４）の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。<br />
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。</p>

<p>最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年（１８７７）の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」</p>

<p>その状況を巖本善治の「海舟余波」（女学雑誌社）では、</p>

<p>「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」<br />
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。</p>

<p>「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」</p>

<p>この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。</p>

<p>前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。</p>

<p>「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。<br />
それは木村芥舟（嘉毅）と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。<br />
この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治３４年（１９０１）一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。</p>

<p>いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。</p>

<p>それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。（「海舟語録」明治三十一年十月七日で）</p>

<p>「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)＊、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」</p>

<p>と語っている。<br />
この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。</p>

<p>では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。</p>

<p>明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。</p>

<p>だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。</p>

<p>「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。</p>

<p>さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。</p>

<p>さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。</p>

<p>海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。</p>

<p>「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。<br />
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)＊百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」</p>

<p>これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。</p>

<p>また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。</p>

<p>話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年（１８５３）から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。<br />
つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。</p>

<p>こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年（１８６４）の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州（注　加賀）、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。</p>

<p>なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。</p>

<p>これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。</p>

<p>この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。</p>

<p>作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」（西郷隆盛　学研文庫）と解説しているが、その通りであろう。</p>

<p>そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。</p>

<p>次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。</p>

<p>実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉　国を支えて国を頼らず」（北　康利著・講談社）から紹介する。</p>

<p>「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年（１９００）の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。<br />
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。<br />
そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。</p>

<p>きっかけは十年前にさかのぼる。<br />
静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)（静岡市清水区興津）に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。<br />
咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。<br />
新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。<br />
この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。</p>

<p>この文章は〈人の食（禄）を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。</p>

<p>幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。</p>

<p>かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。</p>

<p>一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。</p>

<p>（木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない！）<br />
東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」</p>

<p>この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。<br />
しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。<br />
</p>]]>
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<title>痩我慢の説と鉄舟・・・その二</title>
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<summary type="text/plain">痩我慢の説と鉄舟・・・その二 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 明治２４年（１８９１）...</summary>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>痩我慢の説と鉄舟・・・その二<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>明治２４年（１８９１）に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。<br />
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。<br />
①	敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。<br />
②	維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。</p>]]>
<![CDATA[<p>この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。</p>

<p>明治五年（１８７２）海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年（１８７３）には参議海軍卿、明治八年（１８７５）四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。</p>

<p>明治二十年（１８８７）に伯爵、翌明治二十一年（１８８８）枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年（１８８９）憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。</p>

<p>だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」（文芸春秋）で指摘しているので紹介したい。</p>

<p>「明治七年（１８７４）の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。<br />
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。</p>

<p>最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年（１８７７）の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」</p>

<p>その状況を巖本善治の「海舟余波」（女学雑誌社）では、</p>

<p>「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」<br />
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。</p>

<p>「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の<br />
危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」</p>

<p>この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。</p>

<p>前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。</p>

<p>「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。</p>

<p>それは木村芥舟（嘉毅）と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。</p>

<p>この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治３４年（１９０１）一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。</p>

<p>いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。</p>

<p>それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。（「海舟語録」明治三十一年十月七日で）</p>

<p>「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」</p>

<p>と語っている。</p>

<p>この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。</p>

<p>では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。</p>

<p>明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。</p>

<p>だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。</p>

<p>「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。</p>

<p>さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。</p>

<p>さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。</p>

<p>海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。</p>

<p>「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。<br />
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)＊は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」</p>

<p>これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。</p>

<p>また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。</p>

<p>話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年（１８５３）から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。</p>

<p>つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。</p>

<p>こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年（１８６４）の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州（注　加賀）、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。</p>

<p>なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。</p>

<p>これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。</p>

<p>この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。</p>

<p>作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」（西郷隆盛　学研文庫）と解説しているが、その通りであろう。</p>

<p>そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。</p>

<p>次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。</p>

<p>実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉　国を支えて国を頼らず」（北　康利著・講談社）から紹介する。</p>

<p>「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年（１９００）の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。<br />
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。</p>

<p>そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。</p>

<p>きっかけは十年前にさかのぼる。</p>

<p>静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)＊（静岡市清水区興津）に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。</p>

<p>咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。</p>

<p>新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。</p>

<p>この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。</p>

<p>この文章は〈人の食（禄）を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。</p>

<p>幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。</p>

<p>かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。</p>

<p>一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。</p>

<p>（木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない！）</p>

<p>東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」</p>

<p>この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。</p>

<p>しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。<br />
</p>]]>
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<title>歴史秘話秘ヒストリア</title>
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<dc:subject>トピックス</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong>ＮＨＫ総合ＴＶ「歴史秘話秘ヒストリア」</strong></p>

<p>2月１日22：00～22：43</p>

<p>「“相棒”はお前だけ～西郷隆盛と山岡鉄舟・明治をつくった熱い絆」</p>

<p>が放送されますので、皆様ご期待ください。</p>]]>

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<title>2012年2月開催内容及び3月特別例会ご案内</title>
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<modified>2012-01-25T20:37:01Z</modified>
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<summary type="text/plain">2012年2月開催内容及び3月特別例会についてご案内申し上げます。 2012年2...</summary>
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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2012年2月開催内容及び3月特別例会についてご案内申し上げます。</p>

<p>2012年2月例会は以下のように開催いたします。</p>

<p>開催日　2012年2月15日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
発表者　山本紀久雄が担当いたします<br />
テーマ　鉄舟は何を明治天皇に伝えたのか</p>]]>
<![CDATA[<p>明治天皇がその治世期間である、15歳から61歳までの46年間を通じ「偉大な天皇」として、日本を世界歴史の一ページに登場させた業績は誰もが否定できない事実であり、鉄舟が明治天皇の侍従として、明治天皇治世に貢献したことも事実です。</p>

<p>鉄舟という武士階級出身者が天皇の身近に仕える侍従になる背景の宮廷改革と、鉄舟が明治天皇からきわめて篤き信頼を得た、その鉄舟本来人間像を考察いたします。</p>

<p><strong>3月特別合宿例会のご案内</strong></p>

<p>2012年3月例会は、東京文化会館を離れ、新潟県阿賀野市出湯（でゆ）温泉の川上貞雄氏邸にて開催します。出湯温泉とは、白鳥で有名な瓢湖からさらに山間に入ったところで、出湯温泉、村杉温泉、今板温泉、という3つの温泉が点在する五頭温泉郷（ごずおんせんごう）に位置しています。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯1.jpg"><img alt="出湯1.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯1-thumb.jpg" width="181" height="150" /></a><br />
 　 <br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯3.jpg"><img alt="出湯3.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯3-thumb.jpg" width="207" height="150" /></a></p>

<p>日程　　　3月17日（土）18日（日）<br />
集合場所　17日13時30分に新潟駅新幹線東口改札を出たところに集合し、宿泊する清廣館のバスにて瓢湖経由し出湯温泉に向かいます<br />
例会会場　出湯温泉・川上貞雄氏邸阿賀野市出湯８０９電話０２５０－６２－３１６５<br />
宿泊旅館　日本秘湯を守る会の清廣館　電話０２５０－６２－３８３３<br />
参加費　　お一人18,000円（会場費・宿泊費・宴会費）</p>

<p>例会内容　<br />
①17日開催内容<br />
川上氏邸は12町歩の山麓邸宅で、家の中は書で囲まれています。<br />
その書で埋まった中心に、鉄舟・海舟・西郷書があり、さらに伊藤博文・山県有朋・土方歳三など、名前を挙げればキリがありませんが、かつて温泉旅籠であった同家に温泉療養した際に、書き残したものと言われております。</p>

<p>加えて、佐久間象山の直筆長文書翰、内容は吉田松陰の海外渡航事件について考察したもので、この書翰について川上氏から原文のご紹介と内容について解説を頂きます。</p>

<p>また、東京大学出身の地震学者・研究家である佃為成氏が、長らくこの川上氏邸内の温泉湧出地で、地震予知のために水温と伝導度の実験を行っております。</p>

<p>結果として、昨年3月11日の大地震については、その前の2010年5月から伝導度が上昇、更に12月から水温が上昇し、これは大地震の予兆であったと事後確認された実験施設も見学いたします。このような事前予知施設が全国に100万か所あれば地震予知は可能であるとの佃氏見解です。</p>

<p>例会後、宿泊は日本秘湯を守る会の新潟県最古の天然温泉 300年余の歴史を誇る「清廣館」に宿泊します。</p>

<p>②18日開催内容</p>

<p>午前中は出湯温泉街を散策し、併せて「五頭の麓のくらし館」を、新潟県の著名な考古学研究者でもあられ同施設の設立に貢献された川上氏のガイドで見学します。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯(2).jpg"><img alt="出湯(2).jpg" src="http://www<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/清廣館.JPG"><img alt="清廣館.JPG" src="http://www.tessyuu.jp/archives/清廣館-thumb.JPG" width="262" height="150" /></a><br />
.tessyuu.jp/archives/出湯(2)-thumb.jpg" width="191" height="150" /></a></p>

<p>終了後、昼ごろ清廣館バスにて新潟駅に戻り解散します。</p>]]>
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<title>2012年1月開催結果</title>
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<modified>2012-01-25T20:24:09Z</modified>
<issued>2012-01-25T20:20:22Z</issued>
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<summary type="text/plain">1月開催結果についてご案内申し上げます。 　　　　 １．2012年1月開催結果 ...</summary>
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<name>Master</name>

<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>1月開催結果についてご案内申し上げます。<br />
　　　　<br />
１．2012年1月開催結果</p>

<p>①岡村紀男氏の発表</p>

<p>ご自宅で展開されている子育て支援活動「ほっとスペースじいちゃんち」について、発想の経緯と実際の活動内容についてご発表いただきました。</p>]]>
<![CDATA[<p>サラリーマン時代、朝6時半に家を出て、夜9時ごろ帰宅する生活で、地域社会とは無縁、当然ながら、利用する私鉄駅までの間ですれ違う人との挨拶もなく、家には寝るだけに帰る人生だった。</p>

<p>サラリーマンを終え、生きる環境が変わって、自らの立ち位置を再構築しようとして考えたのは<br />
　　●人は一人では生きられない<br />
　　●人と人の関わり会いの中で生きている<br />
という人として当たり前の指針であるが、それを今まで無縁だった地域社会の中で見出そうとしてことであった。</p>

<p>今では、近所の若いお母さんから声をかけられるようになって、地域社会での立ち位置を見出すことができたと思っている。</p>

<p>幼児教育と保育は、今の社会の大きな課題のひとつで、政府が重点政策として改革しようとしていますが、岡村氏は、在職中から幼児期の家庭環境が社会に出て大きな影響を持つことを感じておられ、自らの「生き方環境変化」をチャンスとしてとらえ、自らが出来る環境下で実践されました。</p>

<p>今後、同様の「生き方環境変化」をされる多くの人達に重要なヒントを与えていただいたわけで、その証明が、岡村氏へ多数のメディアからの取材です。</p>

<p>１月23日（月）テレビ東京Ｍプラスに岡村氏が登場しました。この番組は仕事をはじめ普段の買い物や食事、趣味などあらゆる面で「経済」と関わっているとの視点からの報道番組で、ここで放映された背景は、岡村氏の生き方が時代の大きな時流のひとつと見ているからです。</p>

<p>我々は「人それぞれに合う生き方をつくりあげる」ことにつなげるために、鉄舟の生き方を研究しておりますが、岡村氏の実践活動から学ぶこと多き1月例会でした。</p>

<p>②山本紀久雄の発表</p>

<p>今月は「当たり負け」というテーマで発表いたしました。</p>

<p>プロ野球の西部・中島裕之内野手の米大リーグ・ヤンキース入りが成立しませんでしたが、その背景には昨年移籍したツインズの西岡剛内野手の不成績があります。</p>

<p>西岡剛内野手はロッテから期待されツインズへ、オープン戦は絶好調でしたが、本番では大リーグの激しい二塁滑り込みで左足腓骨の骨折、その後もわき腹痛めなどで不本意なシーズンで終りました。</p>

<p>これが、日本人内野手は「当り負け」するという評価につながり、中島裕之内野手のヤンキース入りが実現しなかった本当の理由と判断します。</p>

<p>外国人と接するには何事にも「当り負け」しないことが重要で、これは明治維新時でも同様でした。<br />
明治維新改革を成し遂げ、周りを見れば列強帝国主義国ばかりでした。</p>

<p>　英・・ヴィトリア女王・ディズレーリ内閣で大英帝国最盛期<br />
　仏・・ナポレオン三世<br />
　独・・プロイセン・ヴィルヘルム一世初代ドイツ帝国皇帝<br />
　　　　鉄血宰相ビスマルク<br />
　露・・アレクサンドル二世・ロマノフ王朝12代皇帝<br />
　米・・リンカーン（共）ジョンソン（民）グランド（共）大統領</p>

<p>これら列強帝国諸国に「当り負けしない」体制構築が緊急課題で、そのためには政治家・官僚の強化としての欧米視察があり、若き明治天皇の教育が急務でした。ここに登場したのが鉄舟です。</p>

<p>しかし、天皇教育とは我々が受けるものとは全く異なります。治世者として必要な教育で、この検討のためには明治時代の天皇という立場分析が必要ですが、これは2月の発表になります。</p>]]>
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