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<title>山岡鉄舟　研究会</title>
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<modified>2012-02-18T05:45:41Z</modified>
<tagline>江戸城の無血開城を実現した幕末の偉人「山岡鉄舟」の生き方を学ぶ研究会</tagline>
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<title>「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三</title>
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<summary type="text/plain">山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 　福...</summary>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>　福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を批判した。海舟への批判については、前号で分析したので、今号は榎本武揚について検討したい。</p>

<p>福沢と榎本は遠い親せき筋にあたる。その縁は福沢の妻「お錦」の関係からである。<br />
　文久元年（１８６１）、福沢は中津藩士・土岐太郎八の次女「お金」と結婚した。お金は以前は「おかん」という名であったが気に入らず、両親に頼んで「お金」に変えたが、今度は字がしっくりこず、福沢との結婚後は「お錦(きん)」＊と書くようになった。　このお錦の実家である土岐家と、榎本の母の実家である林家は遠い縁戚筋であった。</p>]]>
<![CDATA[<p>明治二年（１８６９）五月、五稜郭の戦いで榎本は降伏し、戊辰戦争が終ったが、この当時、榎本の母は息子の消息が分からず、必死で尋ね歩いていた。</p>

<p>ここで榎本が、函館五稜郭で降伏するまでの経緯を簡単に振り返ってみたい。明治元年（１８６８）榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送したが、その翌月の八月、新政府軍（官軍）に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が徳川家の成行き、慶喜の駿府への移転を見届けてから脱走を図ったものであるが、この艦隊に咸臨丸が含まれており、この咸臨丸が座礁、台風に翻弄され清水港まで漂流し、辿り着き、乗組員が官軍に殺傷されこと、それが前号で紹介した清水の清見寺にある『咸臨丸殉難諸氏記念碑』と碑文〈食人之食者死人之事〉につながっていて、ここを訪れた福沢が碑文を読んで、怒り心頭に達し、「痩せ我慢の説」を書くキッカケとなったのである。</p>

<p>さて、八月に陸奥に向かった榎本艦隊は、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、十月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。</p>

<p>榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」（国家に準じる統治主体）であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。</p>

<p>これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。</p>

<p>この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治二年五月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、十八日に至って「交戦団体」の首脳である四名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請うたのである。</p>

<p>降伏後、榎本は政権首脳とともに、辰之口牢獄（現・パレスホテルあたり）に収監されたが、この経過を知らない静岡在住の榎本の母は、息子の消息を知ろうと何度も東京の親戚に手紙を出して、必死の捜索をしていた。しかし、多くの親戚は、みな自分に危険が及ぶ可能性があると思い、梨の礫であった。</p>

<p>その状況がお錦を通じて福沢に伝わって、福沢は母に同情し、榎本は辰之口牢獄に入っており、生命は無事であることを母に伝えたのである。</p>

<p>すると母と姉が福沢を頼って上京してきて、福沢の屋敷に泊まり、牢屋にいる息子に弁当や必要と思われるものを差し入れし、面会したいとすがる親心に、福沢は「この母を身代わりにして殺してくれ」というような鬼気迫る「哀願書」を下書きしてあげ、新政府に願いださせた。</p>

<p>この「哀願書」が牢役人の心を動かしたのか、何とか母子の面会が許され、次の目標は赦免に向かった。</p>

<p>そこで福沢は、文久元年十二月に遣欧使節竹内下野守に従い、翻訳方として渡欧した際に同行し、その後も密接な関係にあった松木弘安、明治になって外交官として活躍した後の寺島宗則であるが、この寺島から薩摩出身の官軍参謀長である黒田清隆を紹介受け面会したのである。</p>

<p>その黒田に向かって、福沢は榎本のために熱弁をふるった。</p>

<p>「榎本は新政府に対し反乱した人物であるが、命だけはとらぬようにした方が国家のために得である。この写真を参考までに差し上げるので、じっくりご検討お願いしたい」というようなことを述べ、アメリカの南北戦争で勇名を馳せた南軍のロバート・リー将軍の写真を渡した。</p>

<p>南北戦争もアメリカ国内の戦い、いわば戊辰戦争と同じ国内戦争、南軍が敗退したがリー将軍は助命されている。遺恨をのこさないよう、敗者への対応は寛大にすべきだという趣旨で黒田を諭したのである。</p>

<p>この黒田への福沢の説得が功を奏し、榎本は赦免されることになった。榎本は福沢に感謝し尽くしても、し尽くせないと思われたが、しかし、ここで意外な結果を生むことになる。それを北康利著「福沢諭吉　国を支えて国を頼らず」（講談社）から引用しよう。</p>

<p>「釈放される少し前、榎本は恩知らずな手紙を姉・観月院に出しているのだ。</p>

<p>〈お借りした本は福沢程度の学者が翻訳したものですから、私がわざわざ読むほどのものではありません。それにしても、彼が無遠慮にいろいろ言っているのが耳に届いてきて、高慢ちきだと一同大笑いいたしました。（中略）もうちょっと学問のある人物かと思っておりましたが、案外だとため息をつき、これくらいの見識の学者でも百人余の弟子がいるとは、わが国もまだまだ開化が進んでいないと思い知るべきでしょう〉</p>

<p>そこには信じがたい忘恩の言葉が並んでいた。諭吉のような身分の低い者が自分を助けてくれるなどとは片腹痛いということだったのかもしれないが、それにしても謙虚さや感謝の心のかけらもない」<br />
このような過去の伏線経緯もあって、清見寺の碑文を見た瞬間、福沢は怒ったのである。</p>

<p>では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。（『日本の名著╱３３福沢諭吉・痩せ我慢の説』中央公論社）</p>

<p>≪勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、あくまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽くし、政府の軍艦数艘を率いて函館に脱走し、西軍に抗して奮戦したけれど、ついに窮して降参したる者なり。このときに当たり、徳川政府は伏見の一敗また戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして、人心すでに瓦解し、その勝算なきはもとより明白なるところなれども、榎本氏の挙はいわゆる武士の意気地すなわち痩我慢にして、その方寸の中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたことなれば、幕臣また諸藩士の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従って進退をともにし、北海の水戦、函館の籠城、その決死苦戦の忠勇はあっぱれの振舞いにして、日本(やまと)魂(たましい)の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同じゅうして語るべからず。</p>

<p>しかるに脱走の兵、常に利あらずして勢いようやく迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督をはじめ一部分の人々はもはやこれまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運のつたなきものなれども、成敗は兵家の常にしてもとより咎(とが)むべきにあらず。新政府においてもその罪をに悪(にく)んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは、文明の寛典と言うべし。氏の挙動も政府の処分もともに天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免ののちさらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、わが輩の感服すること能(あた)わざるところのものなり≫</p>

<p>≪氏は新政府に出身してただに口を湖するのみならず、累遷立身して特派公使に任じられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志、達し得てめでたしといえども、顧みて往時を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを＊恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん≫</p>

<p>≪古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ≫</p>

<p>≪これわが輩が榎本氏の出処につき所望の一点にして、ひとり氏の一身のためのみにあらず、国家百年の謀(はかりごと)において士風消長のために軽軽看過すべからざるところのものなり≫</p>

<p>この「痩我慢の説」による榎本への批判についても、筋が通っており成程と思う。<br />
しかし、いくつかの疑問が残る。その第一は福沢がアメリカ南軍のリー将軍の例を持ち出し、<br />
助けるよう黒田清隆を諭した事実の意図である。</p>

<p>当時の新政府は人材不足であった。それまでは徳川幕府の長い政治体制下で、薩摩・長州藩等は幕府政治に深く関与していなかったので、実際に日本国政治を担当するようになって、様々な問題対応能力において大きな齟齬をきたしていたので、優れた人材は喉から出るほど欲しかった。</p>

<p>特に欧米滞在経験のある人材は、諸外国との外交問題、国内体制の近代化に必要不可欠であり、その代表的人物として渋沢栄一を２０１１年１１月号で挙げた。渋沢は、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、ヨーロッパ各国で先進的な産業・軍備を実見した。当時としては稀有の体験を持った人物であり、新政府に抜擢され、その後の活躍によって「日本資本主義の父」といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人となった。</p>

<p>これに対し、榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学（化学）などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年の２７歳から、慶応三年（１８６７）３２歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。</p>

<p>続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。</p>

<p>さらに、辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。</p>

<p>兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。</p>

<p>この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、日本人の通常ではないか。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最後であったと思う。</p>

<p>榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。</p>

<p>五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去り、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。</p>

<p>確かにその通りで、その後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。</p>

<p>さらに加えて分析してみると、辰之口牢獄での行動から判断されるのは、この人物は何か一般人とは別次元基準で生きているということである。</p>

<p>実は、福沢はこの榎本の実体、何か通常の日本人とは異なる次元、知識の幅と深みを併せ持つ「万能型」テクノクラートであることを、事前に理解していたからこそ、榎本は日本の近代化に欠かせない人材だと、リー将軍の事例を黒田清隆に示したのではないかと思われる。</p>

<p>ところが、清水を訪れ清見寺で〈食人之食者死人之事〉を見たことで、赦免前の恩知らずな手紙のことを思い出し、併せて、新政府内での華やかな栄進出世ぶりを考えると、これは、敢えて一言批判を述べないといけないという覚悟につながり、批判としての「痩我慢の説」を展開したのではないか。そのように推測する。</p>

<p>さて、もう一つの疑問は重要である。榎本は何故に〈食人之食者死人之事〉という揮毫、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる文言を、どうして咸臨丸殉難諸氏記念碑に書き込み、刻んだのかということである。</p>

<p>榎本が幕臣であったことは当時の誰もが熟知しているのであるから、普通感覚ならこのような文言は書けないし、書かないであろう。福沢でなくとも怒るのが当たり前である。</p>

<p>だが、堂々と衆人が集まる寺社の境内に揮毫している事実。榎本は、それほどの非常識人なのであろうか。それとも何かの意図があって行ったのか。</p>

<p>これについては福沢への返書に「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば」とあるのみで、他には何も残さずに世を去ったので、何が背景にあるのか榎本の記録からは出てこない。筆者が分析してみるしかないが、そのためには、清見寺境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』が建てられたその咸臨丸事件から見ていかねばならない。</p>

<p>ここで鉄舟と次郎長が登場する。清水の次郎長、後に東海道一の大親分として世間に知られるようになった、そのキッカケはこの咸臨丸事件からである。</p>

<p>ここで改めて、咸臨丸のことを思い起こせば、この艦はまことに数奇な運命にもてあそばれている。長崎の海軍伝習所で訓練を始めた幕府は、嘉永六年（１８５３）にオランダに軍艦を発注した。当時、ロシアとトルコの戦争のため、中立国のオランダは外国向けの建艦を控えていたため、四年後の安政七年（１８６０）にようやく長崎港に現れた。</p>

<p>この咸臨丸を有名にしたのは、日本人初の太平洋横断を成し遂げたことからであった。その後、幕府の軍艦として活動していたが、既に述べたように榎本が新政府軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦を率いて、陸奥に向かって脱走した際も、艦隊に咸臨丸が含まれており、暦では八月でも閏年なので、もう秋に入っていて、台風に遭遇し、観音﨑で暗礁に乗り上げ、それまで回天丸に曳航(えいこう)されていたが、曳綱を断って、風浪のままに漂流し大マストも切り倒すまでになり、常州那珂港沖から三宅島近くを流され、二十九日にようやく下田港にたどりついたのである。</p>

<p>下田港の名主と小田原藩は、咸臨丸が港に入ったことを新政府に届け出た。新政府は肥前藩海軍に「徳川の脱艦、下田港漂着につき、処置すべし」との命を下し、追捕のために軍艦三隻と柳川藩士他数十名乗せて、咸臨丸逮捕に向かった。</p>

<p>咸臨丸は新政府が追捕に向かっているとは知らず、下田から清水港に入り、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届け出た。駿府藩では大騒ぎである。榎本が脱走したことも大騒ぎであったが、そこに脱走したはずの咸臨丸が徳川の本拠地に戻って来たのである。</p>

<p>この騒ぎに現れたのが鉄舟であり、次郎長であった。次号に続く。<br />
</p>]]>
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<title>　痩我慢の説と鉄舟・・・その二</title>
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<modified>2012-02-18T05:01:31Z</modified>
<issued>2012-02-18T04:55:23Z</issued>
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<summary type="text/plain">山岡鉄舟研究　痩我慢の説と鉄舟・・・その二 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 明治２４...</summary>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>山岡鉄舟研究　痩我慢の説と鉄舟・・・その二<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>明治２４年（１８９１）に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。<br />
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。<br />
①	敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。<br />
②	維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。</p>]]>
<![CDATA[<p>この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。</p>

<p>明治五年（１８７２）海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年（１８７３）には参議海軍卿、明治八年（１８７５）四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。</p>

<p>明治二十年（１８８７）に伯爵、翌明治二十一年（１８８８）枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年（１８８９）憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。</p>

<p>だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」（文芸春秋）で指摘しているので紹介したい。</p>

<p>「明治七年（１８７４）の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。<br />
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。</p>

<p>最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年（１８７７）の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」</p>

<p>その状況を巖本善治の「海舟余波」（女学雑誌社）では、</p>

<p>「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」<br />
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。</p>

<p>「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」</p>

<p>この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。</p>

<p>前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。</p>

<p>「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。<br />
それは木村芥舟（嘉毅）と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。<br />
この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治３４年（１９０１）一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。</p>

<p>いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。</p>

<p>それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。（「海舟語録」明治三十一年十月七日で）</p>

<p>「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)＊、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」</p>

<p>と語っている。<br />
この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。</p>

<p>では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。</p>

<p>明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。</p>

<p>だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。</p>

<p>「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。</p>

<p>さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。</p>

<p>さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。</p>

<p>海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。</p>

<p>「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。<br />
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)＊百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」</p>

<p>これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。</p>

<p>また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。</p>

<p>話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年（１８５３）から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。<br />
つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。</p>

<p>こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年（１８６４）の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州（注　加賀）、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。</p>

<p>なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。</p>

<p>これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。</p>

<p>この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。</p>

<p>作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」（西郷隆盛　学研文庫）と解説しているが、その通りであろう。</p>

<p>そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。</p>

<p>次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。</p>

<p>実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉　国を支えて国を頼らず」（北　康利著・講談社）から紹介する。</p>

<p>「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年（１９００）の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。<br />
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。<br />
そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。</p>

<p>きっかけは十年前にさかのぼる。<br />
静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)（静岡市清水区興津）に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。<br />
咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。<br />
新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。<br />
この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。</p>

<p>この文章は〈人の食（禄）を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。</p>

<p>幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。</p>

<p>かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。</p>

<p>一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。</p>

<p>（木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない！）<br />
東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」</p>

<p>この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。<br />
しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。<br />
</p>]]>
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<title>痩我慢の説と鉄舟・・・その二</title>
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<issued>2012-02-18T04:46:29Z</issued>
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<summary type="text/plain">痩我慢の説と鉄舟・・・その二 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 明治２４年（１８９１）...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>痩我慢の説と鉄舟・・・その二<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</p>

<p>明治２４年（１８９１）に福沢諭吉は「痩我慢の説」を書き、勝海舟と榎本武揚を批判したことは前号で紹介した。<br />
その中で海舟に対する指摘を、福沢の言葉を持って総括すれば以下の二点になるだろう。<br />
①	敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたること。<br />
②	維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居ること。</p>]]>
<![CDATA[<p>この①について触れる前に、②を考えてみたい。確かに海舟の明治新政府における地位は華やかである。</p>

<p>明治五年（１８７２）海軍大輔となり従四位に叙せられ、翌明治六年（１８７３）には参議海軍卿、明治八年（１８７５）四月に元老院議官となるが即日辞表を呈出し、十一月に依願免官となって、その後は赤坂氷川町の隠居となった。</p>

<p>明治二十年（１８８７）に伯爵、翌明治二十一年（１８８８）枢密顧問官に任じられ正三位、明治二十二年（１８８９）憲法発布の年に勲一等瑞宝章受章、後に勲一等旭日大綬章、正二位に叙せられた。つまり、海舟の生涯の終りでは正二位勲一等伯爵という高位高官にのぼった。福沢が指摘したのはこの事実であった。</p>

<p>だが、この高位高官として権力中枢にいたことが、明治時代初期に発生した各地での騒乱、特に西南戦争に大きく影響していると、江藤淳が「海舟余波」（文芸春秋）で指摘しているので紹介したい。</p>

<p>「明治七年（１８７４）の佐賀の乱以後、熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、西南戦争と、士族の叛乱があいついだが、これらはすべて官軍側の内部抗争にすぎなかった。明治前半の最大の反政府運動である自由民権運動ですら、本質的には薩長に対する土肥の挑戦にほかならなかったともいえる。<br />
この間にあって、最大の潜在的野党である旧幕臣グループは、戊辰以来三十年間、慶喜とともに異常なまでの沈黙を守りつづけた。そこに海舟の『苦学』が作用していたのである。</p>

<p>最初の、そしておそらくは最大の危機は、明治十年（１８７７）の西南戦争のときにやって来た。海舟と西郷はもとより相重んじた仲であり、江戸開城のために反対の陣営に属しながら協力しあった間柄である。もし海舟が旧幕臣を煽動し、海軍にも働きかけて西郷と呼応したならば、どのような事態が生じていたかは容易に想像し得るところであろう。しかし海舟は起たなかった。起たないどころか連日連夜奔走して、旧幕臣が叛軍に投ずるのを未然に防いでまわった」</p>

<p>その状況を巖本善治の「海舟余波」（女学雑誌社）では、</p>

<p>「明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰ったほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買ったり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、ゆくものかイ」<br />
と書かれているが、それを江藤淳が次のように解説している。</p>

<p>「この『アチラにやり、コチラにやりして』には、彼が政治資金を巧妙に操作して、旧幕臣の生活を支えたことが暗示されている。海舟の政治資金は、おそらく岩崎がその最たるものであり、この岩崎との結びつきの背景には彼と坂本竜馬との関係が潜んでいるものと思われる。その結果、旧幕臣からは、叛軍に投じた者はもちろん、警視庁抜刀隊に参加する者すら出なかった。整然と統制され、力を抑制して、官と薩のあいだの中立勢力たる旧幕臣グループの隠然たる力を示すこと。これこそ明治十年の<br />
危機にあたって海舟が試みたことであり、かつよくなしたことであった」</p>

<p>この江藤説は、なるほどと思う。旧幕臣である元旗本達にとっては、戊辰戦争は不本意な結果で、自分たちの保持する戦力を十二分に発揮できずに終わったことを悔しいと思っているはず。だから、いつか官軍に対して何かの機会に遺恨を晴らしたいという輩一派がいると考えるのが当然で、それが一連の騒乱が続いている時に、どちらかの側に属し、意趣返しの謀反を起こし得ることは十分に想像できる。</p>

<p>前号で紹介したが、福沢諭吉が「痩我慢の説」を海舟と榎本に送った際に添えた「福沢諭吉の手簡」に「なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」とある。</p>

<p>「二、三親友」・・・それは福沢の見解に同調する旧幕臣がいたことを明かしている。</p>

<p>それは木村芥舟（嘉毅）と栗本鋤雲である。木村芥舟は咸臨丸で渡米した際の提督であり、栗本鋤雲は徳川昭武の補佐役としてフランスに渡り、後に外交面で活躍したが、この二人とも明治政府からその能力を評価され、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い謝絶している。</p>

<p>この栗本が「痩我慢の説」を一読し快哉を叫び、全編にわたって線を引いたり、感想を書き込んだりしていたが、とうとう黙っておれなくなり、ついに知人に見せてしまい、内容が外部に漏れたので、福沢もそれなら仕方ないと、十年後の明治３４年（１９０１）一月一日から時事新報に掲載を始めたのである。</p>

<p>いずれにしても、木村芥舟と栗本鋤雲と同様、幕末時の対応に不満意識を持っていた旧幕臣は少なからずいたわけで、何かのキッカケによって爆発へのエネルギーに変化する恐れは高かった。それが、明治初年に発生した各地での騒乱に乗じて爆発したならば、鉄舟の命がけの行動によって実現した海舟・西郷会談によって切り拓かれた明治維新という成果は、国家の大騒乱に変わり、徳川家と明治天皇との関係がおかしくなり、旧幕臣たちの立場は悪化したであろう。</p>

<p>それを恐れた海舟は、全力を尽くして、旧幕臣グループを整然と統制され中立勢力に収めるために動いたのである。後に海舟はこう語っている。（「海舟語録」明治三十一年十月七日で）</p>

<p>「江戸を明け渡したからそれで治るなどといふことがあるものか。畢竟(ひっきょう)、己が苦学の結果で、三十年間かうなって居るではないか」</p>

<p>と語っている。</p>

<p>この「苦学」とは何か・・・。それは、明治新政府をつつがなく運営していくにあたって、謀反を起こす可能性のある旧幕臣グループを問題化させないよう「なだめ」「まとめていく」ために、あらゆる行動を採ったことを「苦学」と言ったのではないかと考える。</p>

<p>では、この苦学を展開し「まとめていく」行くために必要条件とは何か。まず、一番に必要なのは資金であろう。その金は岩崎弥太郎から手当てを受けることができた。次に、その政治資金を使うべき自分の立場が問題となる。</p>

<p>明治政府内に何も権限を持たない状態では、多分、その資金を支出したとしても、有効には機能しないであろう。つまり、在野にいたのではダメで、時の権力の中枢に近ければ近いほど、使ったカネが生きてくる。これは、企業内の政治力学を考えてもわかる。平社員よりは上級幹部の行動の方が影響大きいことは当然だ。</p>

<p>だから、旧幕臣グループを統制するには、政権中枢と強いパイプを持っていることが必要となる・・・このように考えた海舟は、福沢に代表される批判は承知の上で、高位高官の地位を築いたのであろう。そのことを江藤淳が次のように語っている。</p>

<p>「朝に仕えるなら、それはかならず高位高官に任じられるのでなければならない。つまり子爵より伯爵がよく、下僚に甘んじるよりは薩長の顕官と『竝立』って枢密顧問官に列せられるほうがよい。なぜなら位階が高ければ高いほど彼の旧幕臣グループへの統制力は強まり、それだけこのグループの力は隠然と充実するからである」と。</p>

<p>さらに言えば、明治天皇の侍従としての鉄舟が、旧幕臣を「まとめていく」海舟に協力した事は容易に想像がつく。天皇の身近に仕えているということは、何にも勝る重しである。</p>

<p>さて、最初に戻って、②ついて検討してみたい。</p>

<p>海舟は福沢の批判について次のよう氷川清話にある。</p>

<p>「福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す』云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。<br />
福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざる徒(ともがら)＊は、まさにその如くなるべし、唯(ただ)百年の日本を憂ふるの士は、まさにこの如くならざるべからず』サ」</p>

<p>これは海舟の自負であり、偽らざる気持であって「批評家に局に当たらねばならない者の『行蔵』、つまり、混乱の幕末から江戸無血開城、そこから連続する政治に対応してきた『出処進退』の実践と苦しさがわかってたまるか」と率直に述べたものだろう。</p>

<p>また、この感覚は、政治という実践舞台で、諸問題に具体的対応を担当している者にしか分からないものであろう。マスコミや一般人は政治家が動いた結果としての事象から批評する。結果として問題点のみが指摘される傾向になる。これは現在の菅政権にも当てはまることであって、菅政治の総決算は後代が定めていくと考える。</p>

<p>話は海舟に戻るが、海舟の国家感はペリー来航の嘉永六年（１８５３）から経る歴史の中で形成されてきた。長崎での海軍伝習所や幕府内の要職経験を通じ自らの能力を磨き、かため、咸臨丸渡米で国際感覚を身につけ、それを人に伝える中から、幕府体制に対する考え方が定まってきて、それを反幕府勢力の中心人物である西郷にまで伝えた結果が、徳川幕府の崩壊につながっているのである。</p>

<p>つまり、福沢が「敵に向かいてかつて抵抗を試みず」と批判した行動の源には、この一連の歴史から醸成されてきたといえる。</p>

<p>こんな事例がある。明治維新を遡る四年前の元治元年（１８６４）の大坂、西郷は当時大問題であった兵庫開港延期について、幕府軍艦奉行であった海舟に意見を求めたところ「この問題は、加州（注　加賀）、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採って陛下に奏聞し、更に国論を決する」という答えに西郷は唸り、その意味する重大さに驚愕したことかがあった。</p>

<p>なぜなら、この発言は、日本政治の最重要問題処理を、有力諸侯に主体となって当たらせるとい発言であり、これは有力諸侯を国政運営の中心に位置させるという構想につながっており、言外に「幕府には政権担当能力がない」ということを明かしているのだ。</p>

<p>これは当時、とうてい幕臣から発する言葉でない。だが、これを聞いた西郷にとっては、眼を輝かせる見識であり、これを突き詰めていくと、一種の「共和政治」となり、幕府内では反発が強いものだからこそ、薩摩側からみれば一層「その通りだ」ということになる。</p>

<p>この会談を境に薩摩は幕府を見限る方向に動き出したのであって、元治元年時点で、海舟が一度幕府を見放し、それを西郷という類稀なる戦略家に伝えたからこそ、明治維新につながったと考えられるのである。</p>

<p>作家の海音寺潮五郎は、大坂会談時の海舟発言を分析し「勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王・佐幕の抗争などは冷眼視、といって悪ければ、第二、第三に考えていた人である」（西郷隆盛　学研文庫）と解説しているが、その通りであろう。</p>

<p>そのような海舟であるから、福沢から批判されても揺るがないのである。所詮、海舟と福沢は生きる世界が異なり、立場の相違は大きく、すり合わせは出来ない生き方哲学の持ち主同士だった。</p>

<p>次は、榎本武揚に対する福沢諭吉の批判である。</p>

<p>実は、福沢の「痩我慢の説」は榎本への批判から始まったものである。その発端経緯を「福沢諭吉　国を支えて国を頼らず」（北　康利著・講談社）から紹介する。</p>

<p>「十九世紀に別れを告げ新たな二十世紀を迎える明治三十三年（１９００）の大晦日、後々まで語り継がれる一大イベントが慶応義塾で開催された。『世紀送別会』がそれである。<br />
教職員、学生総勢五百余名が午後八時に参集。諭吉は「独立自尊迎新世紀」と大書した書を一同に披露し、万雷の拍手を浴びた。</p>

<p>そして、大きな話題となった世紀送迎会の翌日から『時事新報』に掲載された『痩我慢の説』は、世間をさらに驚かせる。それは、新政府の重鎮である榎本武揚や勝海舟に対する痛烈な批判だったからである。</p>

<p>きっかけは十年前にさかのぼる。</p>

<p>静岡へ出かけた折、清見寺(せいけんじ)＊（静岡市清水区興津）に立ち寄り、境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』を見る機会があった。</p>

<p>咸臨丸は太平洋横断の後、非武装の運搬船として使われていたが、清水港停泊中に新政府軍の攻撃を受け、多数の死傷者を出した。</p>

<p>新政府軍の目を気にして、誰も海上の死骸を引き上げようとしない。腐乱するままに放置されているのを見かね、侠気を出して埋葬したのが有名な清水次郎長である。清見寺の碑は、この凄惨な事件の十七回忌を記念して建てられたものであった。</p>

<p>この悲劇は諭吉もよく知るところだけに、感慨深げに碑文へと目をやった。撰文はあの榎本武揚である。ところが、そこに〈食人之食者死人之事〉という一節を目にした瞬間、色白の彼の顔が見る間に朱に染まっていった。</p>

<p>この文章は〈人の食（禄）を食(は)む者は人の事に死す〉と読み、この場合、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる。</p>

<p>幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りと同時に、何人もの懐かしい顔が浮かんでは消えた。</p>

<p>かつて謹慎を命じられていた諭吉を助けてくれた中島三郎助などは、五稜郭落城の二日前、長男、次男ともども壮烈な戦死を遂げていた。木村嘉毅もまた、最後の幕府海軍所頭取として敏腕を振るったが、維新後は幕府に殉じて新政府からの仕官の話をすべて断り、隠居して芥舟と号し、試作などで静かな余生を送っている。</p>

<p>一方の榎本はと言うと、向島に数寄を凝らした別荘を構え、贅沢三昧の生活を送っていることを知らぬ者はいない。</p>

<p>（木村さんのような人間にしか、あの文章を書く資格はない！）</p>

<p>東京に戻っても怒りは収まらない。この文章を書いたのが、自分の助命した榎本だということが余計に腹立たしかった」</p>

<p>この清見寺で見た碑文の経緯については、福沢が「痩我慢の説」の中で自ら書き述べている。</p>

<p>しかし、ここで最後の「自分の助命した榎本だ」というところ、これは榎本が五稜郭落城降伏後捕らえられていたものを、福沢が時の官軍参謀長であった黒田清隆に直に面会し、赦免するよう説得熱弁をふるったことが功を奏し、牢から出されたものであるが、その背景には福沢の妻お錦が絡んでいることに触れなければならず、清見寺の碑については鉄舟を抜きには語ることができない。次号に続く。<br />
</p>]]>
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<title>歴史秘話秘ヒストリア</title>
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<modified>2012-01-25T20:40:28Z</modified>
<issued>2012-01-25T20:38:19Z</issued>
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<created>2012-01-25T20:38:19Z</created>
<summary type="text/plain">ＮＨＫ総合ＴＶ「歴史秘話秘ヒストリア」 2月１日22：00〓22：43 「“相棒...</summary>
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<name>Master</name>

<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>トピックス</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tessyuu.jp/">
<![CDATA[<p><strong>ＮＨＫ総合ＴＶ「歴史秘話秘ヒストリア」</strong></p>

<p>2月１日22：00～22：43</p>

<p>「“相棒”はお前だけ～西郷隆盛と山岡鉄舟・明治をつくった熱い絆」</p>

<p>が放送されますので、皆様ご期待ください。</p>]]>

</content>
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<title>2012年2月開催内容及び3月特別例会ご案内</title>
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<modified>2012-01-25T20:37:01Z</modified>
<issued>2012-01-25T20:24:54Z</issued>
<id>tag:www.tessyuu.jp,2012://1.465</id>
<created>2012-01-25T20:24:54Z</created>
<summary type="text/plain">2012年2月開催内容及び3月特別例会についてご案内申し上げます。 2012年2...</summary>
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<name>Master</name>

<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tessyuu.jp/">
<![CDATA[<p>2012年2月開催内容及び3月特別例会についてご案内申し上げます。</p>

<p>2012年2月例会は以下のように開催いたします。</p>

<p>開催日　2012年2月15日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
発表者　山本紀久雄が担当いたします<br />
テーマ　鉄舟は何を明治天皇に伝えたのか</p>]]>
<![CDATA[<p>明治天皇がその治世期間である、15歳から61歳までの46年間を通じ「偉大な天皇」として、日本を世界歴史の一ページに登場させた業績は誰もが否定できない事実であり、鉄舟が明治天皇の侍従として、明治天皇治世に貢献したことも事実です。</p>

<p>鉄舟という武士階級出身者が天皇の身近に仕える侍従になる背景の宮廷改革と、鉄舟が明治天皇からきわめて篤き信頼を得た、その鉄舟本来人間像を考察いたします。</p>

<p><strong>3月特別合宿例会のご案内</strong></p>

<p>2012年3月例会は、東京文化会館を離れ、新潟県阿賀野市出湯（でゆ）温泉の川上貞雄氏邸にて開催します。出湯温泉とは、白鳥で有名な瓢湖からさらに山間に入ったところで、出湯温泉、村杉温泉、今板温泉、という3つの温泉が点在する五頭温泉郷（ごずおんせんごう）に位置しています。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯1.jpg"><img alt="出湯1.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯1-thumb.jpg" width="181" height="150" /></a><br />
 　 <br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯3.jpg"><img alt="出湯3.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯3-thumb.jpg" width="207" height="150" /></a></p>

<p>日程　　　3月17日（土）18日（日）<br />
集合場所　17日13時30分に新潟駅新幹線東口改札を出たところに集合し、宿泊する清廣館のバスにて瓢湖経由し出湯温泉に向かいます<br />
例会会場　出湯温泉・川上貞雄氏邸阿賀野市出湯８０９電話０２５０－６２－３１６５<br />
宿泊旅館　日本秘湯を守る会の清廣館　電話０２５０－６２－３８３３<br />
参加費　　お一人18,000円（会場費・宿泊費・宴会費）</p>

<p>例会内容　<br />
①17日開催内容<br />
川上氏邸は12町歩の山麓邸宅で、家の中は書で囲まれています。<br />
その書で埋まった中心に、鉄舟・海舟・西郷書があり、さらに伊藤博文・山県有朋・土方歳三など、名前を挙げればキリがありませんが、かつて温泉旅籠であった同家に温泉療養した際に、書き残したものと言われております。</p>

<p>加えて、佐久間象山の直筆長文書翰、内容は吉田松陰の海外渡航事件について考察したもので、この書翰について川上氏から原文のご紹介と内容について解説を頂きます。</p>

<p>また、東京大学出身の地震学者・研究家である佃為成氏が、長らくこの川上氏邸内の温泉湧出地で、地震予知のために水温と伝導度の実験を行っております。</p>

<p>結果として、昨年3月11日の大地震については、その前の2010年5月から伝導度が上昇、更に12月から水温が上昇し、これは大地震の予兆であったと事後確認された実験施設も見学いたします。このような事前予知施設が全国に100万か所あれば地震予知は可能であるとの佃氏見解です。</p>

<p>例会後、宿泊は日本秘湯を守る会の新潟県最古の天然温泉 300年余の歴史を誇る「清廣館」に宿泊します。</p>

<p>②18日開催内容</p>

<p>午前中は出湯温泉街を散策し、併せて「五頭の麓のくらし館」を、新潟県の著名な考古学研究者でもあられ同施設の設立に貢献された川上氏のガイドで見学します。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/出湯(2).jpg"><img alt="出湯(2).jpg" src="http://www<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/清廣館.JPG"><img alt="清廣館.JPG" src="http://www.tessyuu.jp/archives/清廣館-thumb.JPG" width="262" height="150" /></a><br />
.tessyuu.jp/archives/出湯(2)-thumb.jpg" width="191" height="150" /></a></p>

<p>終了後、昼ごろ清廣館バスにて新潟駅に戻り解散します。</p>]]>
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<title>2012年1月開催結果</title>
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<modified>2012-01-25T20:24:09Z</modified>
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<summary type="text/plain">1月開催結果についてご案内申し上げます。 　　　　 １．2012年1月開催結果 ...</summary>
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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>1月開催結果についてご案内申し上げます。<br />
　　　　<br />
１．2012年1月開催結果</p>

<p>①岡村紀男氏の発表</p>

<p>ご自宅で展開されている子育て支援活動「ほっとスペースじいちゃんち」について、発想の経緯と実際の活動内容についてご発表いただきました。</p>]]>
<![CDATA[<p>サラリーマン時代、朝6時半に家を出て、夜9時ごろ帰宅する生活で、地域社会とは無縁、当然ながら、利用する私鉄駅までの間ですれ違う人との挨拶もなく、家には寝るだけに帰る人生だった。</p>

<p>サラリーマンを終え、生きる環境が変わって、自らの立ち位置を再構築しようとして考えたのは<br />
　　●人は一人では生きられない<br />
　　●人と人の関わり会いの中で生きている<br />
という人として当たり前の指針であるが、それを今まで無縁だった地域社会の中で見出そうとしてことであった。</p>

<p>今では、近所の若いお母さんから声をかけられるようになって、地域社会での立ち位置を見出すことができたと思っている。</p>

<p>幼児教育と保育は、今の社会の大きな課題のひとつで、政府が重点政策として改革しようとしていますが、岡村氏は、在職中から幼児期の家庭環境が社会に出て大きな影響を持つことを感じておられ、自らの「生き方環境変化」をチャンスとしてとらえ、自らが出来る環境下で実践されました。</p>

<p>今後、同様の「生き方環境変化」をされる多くの人達に重要なヒントを与えていただいたわけで、その証明が、岡村氏へ多数のメディアからの取材です。</p>

<p>１月23日（月）テレビ東京Ｍプラスに岡村氏が登場しました。この番組は仕事をはじめ普段の買い物や食事、趣味などあらゆる面で「経済」と関わっているとの視点からの報道番組で、ここで放映された背景は、岡村氏の生き方が時代の大きな時流のひとつと見ているからです。</p>

<p>我々は「人それぞれに合う生き方をつくりあげる」ことにつなげるために、鉄舟の生き方を研究しておりますが、岡村氏の実践活動から学ぶこと多き1月例会でした。</p>

<p>②山本紀久雄の発表</p>

<p>今月は「当たり負け」というテーマで発表いたしました。</p>

<p>プロ野球の西部・中島裕之内野手の米大リーグ・ヤンキース入りが成立しませんでしたが、その背景には昨年移籍したツインズの西岡剛内野手の不成績があります。</p>

<p>西岡剛内野手はロッテから期待されツインズへ、オープン戦は絶好調でしたが、本番では大リーグの激しい二塁滑り込みで左足腓骨の骨折、その後もわき腹痛めなどで不本意なシーズンで終りました。</p>

<p>これが、日本人内野手は「当り負け」するという評価につながり、中島裕之内野手のヤンキース入りが実現しなかった本当の理由と判断します。</p>

<p>外国人と接するには何事にも「当り負け」しないことが重要で、これは明治維新時でも同様でした。<br />
明治維新改革を成し遂げ、周りを見れば列強帝国主義国ばかりでした。</p>

<p>　英・・ヴィトリア女王・ディズレーリ内閣で大英帝国最盛期<br />
　仏・・ナポレオン三世<br />
　独・・プロイセン・ヴィルヘルム一世初代ドイツ帝国皇帝<br />
　　　　鉄血宰相ビスマルク<br />
　露・・アレクサンドル二世・ロマノフ王朝12代皇帝<br />
　米・・リンカーン（共）ジョンソン（民）グランド（共）大統領</p>

<p>これら列強帝国諸国に「当り負けしない」体制構築が緊急課題で、そのためには政治家・官僚の強化としての欧米視察があり、若き明治天皇の教育が急務でした。ここに登場したのが鉄舟です。</p>

<p>しかし、天皇教育とは我々が受けるものとは全く異なります。治世者として必要な教育で、この検討のためには明治時代の天皇という立場分析が必要ですが、これは2月の発表になります。</p>]]>
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<title>2012年1月例会ご案内</title>
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<modified>2011-12-29T21:15:44Z</modified>
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<summary type="text/plain">2012年1月例会は以下のように開催いたします。 開催日　2012年1月18日（...</summary>
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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2012年1月例会は以下のように開催いたします。</p>

<p>開催日　2012年1月18日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
発表者　岡村紀男氏と山本紀久雄が担当いたします<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>①岡村紀男氏</p>

<p>ご発表は「ほっとスペースじいちゃんち」です。</p>

<p>岡村紀男氏は昨年６月、自宅を子育て広場に開放し「ほっとスペースじいちゃんち」の名で週１回、乳幼児連れの親子を招き交流できる場所を提供しておられます。　区民講座で知り合った元保育士の女性らもスタッフに加わり、育児相談もあり、これまでに110組以上の親子がじいちゃんちを訪ねられています。</p>

<p>　岡村氏は大学の就職課で学生の就活支援をしてきた経験から、幼い頃の家庭環境がその後の人間形成に大きな影響を与えることを痛感、今の子育て環境を憂慮し「昔は地域で子育てをしたが、今はそのような仕組みが薄まり、親が気軽に相談できる場がない。そういう場を提供したい」という戦略目標を持って実行されています。</p>

<p>鉄舟の生き方から、今の時代の生き方を学ぶ我々にとって、このような「生き方」を選択され実行している岡村氏から学ぶことは大きいと思います。</p>

<p>なお、日経新聞2011年10月26日（夕刊）「高齢者男性が子育て支援」記事に岡村氏が登場しておりますのでご参考ください。</p>

<p>②山本紀久雄</p>

<p>2011年は日本にとって稀なる事件の連続で厳しい一年でしたが、新しい年は期待できると思います。まずはその根拠について考察いたします。</p>

<p>鉄舟研究は、明治天皇がその治世期間である、15歳から61歳までの46年間を通じ「偉大な天皇」として、日本を世界歴史の一ページに登場させた業績は誰もが否定できない事実であり、鉄舟が明治天皇の侍従として、明治天皇治世に貢献したことも事実です。</p>

<p>しかし、鉄舟という武士階級出身者が天皇の身近に仕える侍従になるには、前提として廃藩置県に匹敵する「宮廷改革」が必要でした。</p>

<p>その改革までのプロセスと、西郷隆盛と鉄舟の両者がどのように対応していたかについて考察いたします。</p>

<p>３．2012年2月例会は以下のように開催いたします。</p>

<p>開催日　2012年2月15日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
発表者　山本紀久雄が担当いたします</p>

<p>４．2012年3月例会事前ご案内</p>

<p>3月17日（土）18日（日）に新潟県阿賀野市出湯(でゆ)温泉で一泊合宿例会を行います。12町歩の山麓に位置する川上貞雄様邸にて開催、鉄舟、海舟、西郷、伊藤博文、山県有朋、土方歳三等の書と、吉田松陰と関わる佐久間象山の直筆手紙を拝見し、隣接する日本の秘湯「清廣館」に宿泊いたします。</p>

<p>後日、改めて詳しくご案内をいたしますので、皆様、楽しみにお待ち願います。</p>

<p>５．東日本大震災義援金</p>

<p>　既に申し上げておりましたように、東日本大震災義援金として、3月以降開催いたしました例会の参加費から会場費等の実費を差し引いた10万円を、12月27日ＮＨＫさいたま放送局を通じて寄付いたしましたのでご報告いたします。<br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/001.jpg"><img alt="001.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/001-thumb.jpg" width="214" height="150" /></a></p>

<p>　皆様のご協力に深く感謝申し上げます。</p>

<p></p>

<p>以上<br />
</p>]]>
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<title>2011年12月開催結果</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tessyuu.jp/archives/2011/12/201112_1.html" />
<modified>2011-12-29T21:07:27Z</modified>
<issued>2011-12-29T20:56:12Z</issued>
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<summary type="text/plain">2011年12月開催結果をご案内します 〓末松正二氏の発表 11月に続く終戦工作...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年12月開催結果をご案内します</p>

<p>①末松正二氏の発表</p>

<p>11月に続く終戦工作を資料に基づき発表がありました。<br />
昭和20年8月14日10：00皇居防空豪で御前会議が開かれ、そこで昭和天皇が次の発言をされ、戦争終結の聖断が下されました。</p>]]>
<![CDATA[<p>「外に意見が無ければ私の考えを述べる。反対論の意見はそれぞれ聞いたが、私の考えは前に申したことに変わりは無い。私は世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。</p>

<p>国体についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて先方は相当な好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応は最もだが私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際、先方の申し入れを受託してよろしいと考える。</p>

<p>どうか皆もそう考えて貰いたい。（中略）この上戦争を続けては結局我が邦が全く焦土となり万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍びがたい。</p>

<p>祖宗の霊にお応え出来ない。素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本が全く無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。</p>

<p>私は明治大帝が涙をのんで思い切られたる三国干渉当時の御苦衷を忍び、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力して将来の回復に立ち直りたいと思う」（以下続くが省略）</p>

<p>この内容をお聞きし、改めて日本は天皇中心国家であると確認し、その後の歴史が昭和天皇ご聖断は妥当であったとことを証明しています。</p>

<p>また、日本は天皇判断で国体の戦略決定がなされているという最適例であり、世界で稀なる天皇制の日本は恵まれていると感じた次第です。<br />
　末松氏のご発表から学ぶ点が多き12月例会で、末松氏に感謝申し上げます。</p>

<p>②山本紀久雄の発表</p>

<p>「鉄舟が明治天皇侍従となる前提を理解したい」というテーマで発表いたしました。</p>

<p>鉄舟は、明治天皇侍従として、天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時に仕えました。</p>

<p>しかし、当時の状況を考えると武士階級出身の一般民間人が、簡単に侍従として仕えられたのかという疑問が浮かびます。</p>

<p>その事例として、明治天皇即位時の各国公使謁見に対する宮廷内の反対事件を取り上げ、公家以外の一般人が侍従という立場にはなれることなどありえなかった慣習の塊、これを破壊しなければ鉄舟の登場もなかったことに触れました。</p>

<p>なお、改革推進には必ず賛成と反対があって、それは両者の外国との接し方の痛み度合いによるものだということを、明治維新改革と現在二派に分かれて論議されているＴＰＰ問題を事例として取り上げ解説いたしました。</p>

<p>加えて、アメリカのＮＹとＳＦの武道家と11月に出会い、外国の武道家が武道指導する際に、新渡戸稲造以外の英文武士道本を求めている実態についても報告いたしました。<br />
</p>]]>
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<title>痩我慢の説と鉄舟・・・その一</title>
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<modified>2011-12-22T23:59:13Z</modified>
<issued>2011-12-22T23:49:03Z</issued>
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<summary type="text/plain">痩我慢の説と鉄舟・・・その一 山岡鉄舟研究家　山本紀久雄 福沢諭吉は明治二十四年...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong>痩我慢の説と鉄舟・・・その一<br />
山岡鉄舟研究家　山本紀久雄</strong></p>

<p>福沢諭吉は明治二十四年（１８９１）、「痩我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を正面切って批判した。徳川幕府と明治政府の両方に要人として仕えたことへの士道・士魂からの批判である。だが、鉄舟も同様に明治天皇の侍従として仕えたが、福沢から批判されなかった。それらの背景について今号以下で検討してみたい。</p>]]>
<![CDATA[<p>さて、この検討に入る前、鉄舟の長女である松子女史に、鉄舟の駿府での住居について直接確認している牛山栄治氏の記述を紹介したい。（「定本山岡鉄舟」新人物往来社）</p>

<p>牛山栄治氏は鉄舟の高弟である小倉鉄樹の薫陶を受けた人物である。</p>

<p>「私は鉄舟の長女である松子女史から直接きいたことがある。松子さんは文久二年（１８６２）正月十二日生まれであるから、明治二年には数え年八歳でよく覚えていられた。</p>

<p>『静岡に来てからの住居は材木町で、旧幕時代十分一と呼ばれた安倍川の岸にあった大きな徴税の役所を買いとったもので、洪水のときなど家の下まで水がおしよせて来たのを覚えています』<br />
　といっていた。</p>

<p>明治五年に『壬申戸籍』（注：編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす）と言われる新たな戸籍が出来ているが、このときの鉄舟の住居は、駿河国安倍郡安西方七番屋敷となっているから、これは松子女史の話の通り、いまの材木町あたりを言っているのであろう。</p>

<p>このあたりは賤機山(しずはたやま)公園の西に隣接している静岡の中心地に近く、荒れ川で有名な安倍川に近いので、洪水には水もおしよせたであろうが、鉄舟屋敷は静岡藩では重要位置にあったのである。敷地は広大で、現在の井宮町六番地の赤石製材株式会社や疋田ガソリンスタンドの位置、水道町一番地の佐藤電気商会の位置にもおよぶといい、そこに『鉄舟屋敷跡』という碑が建っている。（注：この碑は老朽化し撤去されたままになっていたが、２０１０年四月に新しい記念碑が、静岡・山岡鉄舟会と地元の水道町町内会によって静岡市葵区水道町１－４に建立された）</p>

<p>ここで鉄舟はどんな家族といっしょに住んでいたのであろうか。壬申戸籍によると、養父山岡信吉一家がいる。信吉は天保三年（１８３２）七月二十日生れで、山岡静山の弟であり、高橋泥舟の兄で、鉄舟より四歳年長であるが、生来の唖であったので一応静山の家督はついだものの、鉄舟を養子に迎えたのであるから、鉄舟の養父となっていたのである。</p>

<p>鉄舟の家族としては、夫人英子（天保十一年四月九日生）と、長女松子、長男直記（慶応元年二月二日生）、二男静造（明治三年五月四日生）、三女しま（明治七年四月八日生）、四女多以（明治八年五月十一日生）が戸籍にはのっている。三女、四女は鉄舟が東京に出てから生まれたのでここに住んでいたのではない」</p>

<p>もう一つ面白い記述がある。牛山栄治氏は第二次世界大戦時の極東国際軍事裁判、東京裁判ともいうが、この裁判で日本側の弁護人に、ジョージ・ヤマオカという日系米人がいたが、これが鉄舟の曾孫であったという。（「定本山岡鉄舟」新人物往来社）</p>

<p>「鉄舟屋敷には、日本の石油開発の創始者になった石坂周造が、明治三年に第三回目の入獄から出牢して身を寄せ鉄舟の付籍となっていたが、鉄舟夫人英子の妹圭子を後妻にしたのでこの石坂夫婦が同居している。</p>

<p>この石坂には、嘉永五年三月二日に先妻との間に生まれた長男宗之助がいたが、この宗之助を鉄舟は長女松子の婿養子にして同居し、これが東京に出てから明治十六年十一月二十六日に長女まさと、明治十九年一月十四日に長男英一を生んでいる。</p>

<p>宗之助は温順な人柄であるが、石坂が石油会社を創立すると、八年間もアメリカのペンシルヴァニア州に留学させられ、石油採掘と精製について研究し、帰朝してからは鉄舟の養子になり、不振な石坂の石油事業にまきこまれて苦労していたが、鉄舟が死んだ明治二十一年に鉄舟の後を追うように死んでいる。</p>

<p>このとき長男英一は三歳になったばかりであったが、米国の知人が養育を引きうけてアメリカに連れていった。</p>

<p>英一はその後時計商として成功したというが、いつとはなく山岡家とは音信が絶えていた。大東亜戦が終わった後の、昭和二十一年五月三日から東京市ヶ谷台の旧陸軍省大講堂に、国際法廷が設けられて、東条英機元首相以下、Ａ級戦争犯罪人二十八被告の極東国際裁判が開かれた。</p>

<p>この裁判は勝者が敗者を裁くという無理な裁判で、日本側の弁護人清瀬一郎など悲壮な努力をつづけていたが、この日本側の弁護人の中に、日系米人で、ジョージ・ヤマオカという人がいた。名刺には日本名で山岡譲治と添え書きがしてあった。</p>

<p>昭和二十二年七月十九日の鉄舟忌に、筆者は谷中全生庵の法要に出てこのジョージ・山岡に紹介された。彼は当時丸の内中通り、成富弁護士の事務所を借りていたがフランス人を妻にもち、その日も可愛い金髪の少女を連れていた。</p>

<p>このジョージ・山岡が山岡英一の子供であると鉄舟研究家の安部正人が断定してつれてきたのであるが、当人は親の家は元静岡県士族であるくらいの知識しかなく、鉄舟の曾孫であると言われてもあまり感激もない様子だったが、それでも当時としては大金の金二十万円を全生庵に寄進し、また千葉県勝浦に住んでいた鉄舟孫の龍雄君を度々訪ねて、魚釣を楽しんだという」</p>

<p>さて、本題である福沢諭吉「痩我慢の説」による勝海舟と榎本武揚への批判に入りたい。</p>

<p>福沢諭吉は天保5年（1835）生まれ、明治34年（1901）六十六歳で逝去。中津藩士、幕臣を経て新聞時事新報の創刊・発行者、東京学士会院（現在の日本学士院）初代会長、慶應義塾創設者であり「学問のすすめ」「文明論の概略」「西洋事情」その他多く名著を残し、明治日本社会に大きな影響を及ぼした啓蒙思想家である。</p>

<p>また、興味深いことに明治維新の年（１８６８）には三十三歳であって、福沢の前半は江戸時代、後半が明治時代と維新を境にして半分ずつの人生を送っている。</p>

<p>「痩我慢の説」は二十世紀を迎えた１９００年（明治三十三年）の、翌年の１９０１年（明治３４年）一月一日から時事新報に掲載が開始された。しかし、実際に書かれたのは、これより十年前の明治二十四年（１８９１）であった。</p>

<p>福沢ほどの人物が、新聞紙上で特定の人物を名指しで、それも明治政府の重鎮として存在感を示していた二人を批判するということ、それにはそれなりの背景と理由があるわけで、これについては後述するとして、まずは明治２４年に書き終え、二人に送った際の手紙と、二人からの返書を見てみよう。（「日本の名著３３福沢諭吉」中央公論社）</p>

<p>「福沢諭吉の手簡」</p>

<p>　拝啓つかまつり候。のぶれば過日痩我慢の説と題したる草稿一冊を呈し候。あるいは御一読もなし下され候や。その節申し上げ候とおり、いずれこれは時節を見計らい、世に公にするつもりに候えども、なお熟孝つかまつり候に、書中あるいは事実の間違いはこれあるまじきや、または立論の旨につき御意見はこれあるまじきや、小生の本心はみだりに他を攻撃して楽しむものにあらず、ただ多年来、心に釈然たらざるものを記して世論に質し、天下後世のためにせんとするまでの事なれば、当局の御本人において云々のお説もあらば拝承いたしたく、何とぞお漏らし願いたてまつり候。要用のみ重ねて申し上げ候。<br />
匆々(そうそう)頓首。<br />
　　　　　　二月五日　　　　　　　　　　　　　　　　　　諭吉<br />
　　　　　　　・・・・様<br />
なおもってかの草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまで二、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候。これまたついでながら申し上げ候。以上。<br />
　　<br />
　　「勝安芳の答書」</p>

<p>　古より当路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為において御議論数百言、御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志かたじけなく存じ候。<br />
　行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候。各人へお示しござ候とも毛頭異存これなく候。おん差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候なり。<br />
　　　　　二月六日　　　　　　　　　　　　　　　　　　安芳<br />
　　　　　　福沢先生<br />
　拙、このほどより所労平臥中、筆を採るに懶(ものう)く、乱筆御海容を蒙りたく候。</p>

<p>「榎本武揚の答書」</p>

<p>　拝復。過日お示し下され候貴著痩我慢中、事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば云々との御意、拝承いたし候。昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候。まずは取り敢えず回音かくのごとくに候なり。<br />
　　　　　二月五日　　　　　　　　　　　　　　　　　　武揚<br />
　　　　　　福沢諭吉様</p>

<p>では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。（「日本の名著３３福沢諭吉」中央公論社）</p>

<p>まずは勝海舟に対する批判から紹介したい。</p>

<p>「自国の衰頽(すいたい)に際し、敵に対してもとより勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝敗の極に至りて、はじめて和を講ずるか、もしくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗に言う痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢によらざるはなし」</p>

<p>「しかるにここに遺憾なるは、わが日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起こりて、その際不幸にもこの大切なる痩我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向かいてかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たるわが日本武士の気風を傷(そこの)うたるの不利はけっして少々ならず。得をもって損を償うに足らざるものと言うべし」</p>

<p>「国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。しかるを勝氏はあらかじめ必敗を期し、そのいまだ実際に敗れざるに先んじて、みずから自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたるは者なれば、兵乱のために人を殺し、財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる痩我慢の士風を傷うたるの責めは免るべからず。殺人、散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。此を典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり」</p>

<p>「然りといえども勝氏もまた人傑なり。当時、幕府内部の物論を耕して旗本の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、もって王政維新の成功を易くして、これがために人の生命を救い、財産を安全ならしめたるその功徳は少なからずと言うべし。</p>

<p>　この点につきてはわが輩も氏の事業を軽々看過するものにあらざれども、ひとり怪しむべきは、氏が維新の朝にさきの敵国の士人と並び立って得々名利の地位に居るの一事なり」</p>

<p>「氏の尽力をもって穏やかに旧政府を解き、よってもって殺人・散財の禍を免れたるその功は、奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対していまだ兵を交えず、早くみずから勝算なきを悟りて謹慎するがごとき、表面には官軍に向かいて云々の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵する勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、わが日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、もって立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁(のが)るべからず」</p>

<p>　この福沢諭吉の論旨になるほどと思う。立国の精神に立てば、あくまでも戦うことが必要で、一旦退く癖を国家政治が身につければ、外交問題で敵国から圧し込まれるばかりになってしまうという懸念を強調していることに同感する。</p>

<p>今の日本政府要人には、福沢が述べている痩我慢がなく、外交問題を目先にとらわれた安直な解決手段を弄しているような気がしてならない。政府要人は福沢の「痩我慢の説」を熟読玩味すべきであろう。</p>

<p>だかしかし、鉄舟の行動をつぶさに検討し、この連載を続けている者としては、福沢の言い分は筋が通ってはいるが、何か現実味が薄いという感を持たざるを得ない。</p>

<p>海舟という人物への好き嫌いは別として、海舟の成し遂げた業績は、鉄舟という際立った実践行動力をもった人物から命を賭する武士道精神を引き出し、共に能力の全てを傾注し、江戸無血開城をまとめ上げ、幕末から明治維新への混乱期を最小限の紛争にとどめ、日本国を近代化へと道筋をつけた最大の功労者であろう。また、この間、海舟も鉄舟も何度も刃の下をくぐる危機を経験してきている。</p>

<p>これに対し、福沢は同時代を学者・教育者としての道を歩んできた。福沢の教育観は、数と理をもととして、自然の法則に重きをおく科学的・合理的精神と、他方、独立自尊をモットーとし、いやしくも卑劣なことは絶対しないという精神、この二つの原則に立つものであった。</p>

<p>福沢は大坂に生まれ、父の死で大分県中津に移り住んで１９歳まで育った。中津での幼少期の出来事としては、神罰を恐れず、稲荷神社の神体のお札を捨ててしまうという行動をとったこと、これは集団と伝統からの拘束を嫌い、自由でありたいという思考をもっていたことを表している。</p>

<p>その後、長崎でオランダ語を学び、大坂に出て緒方洪庵の適塾で三年間の修業で、後年の思想の礎と教育者としての性格形成を成したといわれている。</p>

<p>　２３歳で江戸に出て、２５歳には海舟が艦長の咸臨丸でアメリカへ、その際に海舟と福沢はあまり仲が良くなかったといわれ、次に２６歳で幕府の遣欧使節団翻訳方としてヨーロッパへ、３２歳の慶応三年幕末動乱期には日本を留守にし、幕府の軍艦受取委員の随行として再度アメリカへ渡航している。　　　　　　　　　<br />
　翌慶応四年四月３２歳のときに蘭学塾を慶応義塾と改称、芝新銭座（有馬家中屋敷の一部、現在の東京都港区浜松町1丁目、神明小学校あたり）に開設し、彰義隊壊滅の日も「いかなる変動があろうとも、慶応義塾が存する限り、わが国に学問の命脈の絶えることはない」と通常の授業を続けたことは有名である。</p>

<p>　このように福沢は、政治的なものへは傍観者的であり、政治とは独立した学問的な合理性を重んじたのであって、幕末政治に深く関わっていた海舟や鉄舟とは大きく立場が異なる。当然ながら後年、海舟は福沢の批判について反論したが、これは次号にお伝えしたい。<br />
</p>]]>
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<title>2011年12月例会案内</title>
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<modified>2011-11-24T21:40:53Z</modified>
<issued>2011-11-24T21:37:41Z</issued>
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<summary type="text/plain">2011年12月例会のご案内をいたします。 開催日　2011年12月21（水） ...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年12月例会のご案内をいたします。</p>

<p>開催日　2011年12月21（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
参加費　1500円<br />
発表者　末松正二氏と山本紀久雄が担当いたします。</p>]]>
<![CDATA[<p>①	末松正二氏</p>

<p>11月に続き「終戦工作」をご発表頂きます。</p>

<p>昭和20年8月9日23：50より開催された最高戦争指導会議で、昭和天皇は<br />
「このような状況で本土決戦に突入したならばどうなるか誠に心配である。日本民族は皆死んでしまうことになるのではないか。日本という国を子孫に伝える為に、一人でも多くの国民に生き残ってもらい、その人達に将来再び立ち上がってもらうほか道は無い。私としては忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰という事も、その人達が皆忠誠を尽くした人であることを思うと耐え難いことである。しかし国民全体を救い、国家を維持する為には、この忍びがたいことも忍ばねばならぬと思う」</p>

<p>と述べられ、戦争終結の決心をされ、外務省は8月10日７：００頃にスイス、スウェーデンを通じ連合国に対し、ポツダム宣言について　　「右宣言は、天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざることの了解の下に受託す」と聖断によって回答したわけです。</p>

<p>この条件に対する連合国側の回答を巡って第二回目の聖断がなされ、また陸軍の軍事クーデター計画等がありました。</p>

<p>これらについて12月にご発表頂きますが、いずれにしても末松氏の「終戦工作」は日本人として把握すべき重要な内容ですので、皆様が関心持たれご参加される事を期待しております。<br />
　<br />
②	山本紀久雄</p>

<p>明治天皇の治世は15歳から61歳までの46年間であり、「偉大な天皇」として日本を世界歴史の一ページに登場させた業績は誰もが否定できない事実です。</p>

<p>また、その明治天皇の侍従として鉄舟が貢献したことも、重要な事実として認識されています。</p>

<p>しかし、鉄舟という武士階級出身者が天皇の身近に仕える侍従になる事は、当時の社会常識では考えられないことだったのです。</p>

<p>どうして「考えられないことなのか」と、何故に「侍従になれた」のか。それには廃藩置県に匹敵する宮廷改革がなされたからですが、それらの改革までのプロセスと、鉄舟の対応について考察いたします。</p>

<p>さらに、明治天皇のなされた事が、終戦後の昭和天皇にまでつながっている経緯をお伝えいたします。</p>

<p>2012年1月例会は以下のように開催いたします。</p>

<p>開催日　2012年1月18日（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　１８：３０から２０：００</p>

<p>発表者　岡村紀男氏と山本紀久雄が担当いたします</p>

<p>①	岡村紀男氏のご発表は「ほっとスペースじいちゃんち」です。</p>

<p>岡村氏は自宅を週１回、乳幼児連れの親子を招き交流できる場所を提供されています。<br />
鉄舟の生き方から、今の時代の生き方を学ぶ我々にとって、このような「生き方」を選択され実行している岡村氏から学ぶ事は大きく、1月のご発表をお願いした次第です。</p>

<p>日経新聞10月26日（夕刊）「高齢者男性が子育て支援」記事に岡村氏が登場しておりますのでご参考ください。</p>

<p>②	山本紀久雄の発表は、鉄舟研究を行います。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上<br />
</p>]]>
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<title>2011年11月開催結果</title>
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<modified>2011-11-24T21:37:13Z</modified>
<issued>2011-11-24T21:33:45Z</issued>
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<summary type="text/plain">11月例会は末松正二氏と山本紀久雄が発表いたしました。 　　　　 〓	末松正二氏...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>11月例会は末松正二氏と山本紀久雄が発表いたしました。<br />
　　　　</p>

<p>①	末松正二氏<br />
「終戦工作」を11月・12月二カ月ご発表頂く、その第一回目でした。<br />
終戦工作は、岡田啓介を中心とする重臣グループ（総理経験者）、高松宮、近衛文麿、木戸内大臣等を中心とする宮中グループがその有力なグループで、他にも多数の工作がありました。</p>]]>
<![CDATA[<p>また、終戦は政府が閣議で決定し、枢密院の同意を得、天皇の決定により成立します。<br />
よって終戦を実現するには、政府の各閣僚の賛成を得、閣議で審議されるようにもってゆくことが必要です。</p>

<p>当時の総理大臣は東條英機で、開戦時の総理でもあり、陸軍大臣、参謀総長も兼ねていて、陸軍の全ての決定権を持っていました。</p>

<p>東條は戦争継続、徹底抗戦を主張しており、従って、終戦工作は東條内閣を倒閣させることから始まるのです。</p>

<p>このように末松氏は終戦工作について、事実に基づき時系列に整理され解説されましたが、我々はその事実を正確につかんでいなかった、というのが正直な感想で反省でした。<br />
今の社会体制は全て終戦からつながっています。その事を末松氏からのご発表で改めて振り返るよい機会でした。</p>

<p>末松氏から学ぶことは多く、12月のご発表も期待できます。</p>

<p>②	山本紀久雄</p>

<p>山岡鉄舟という偉大な人物について研究していくと、いつも新鮮な感覚になります。</p>

<p>11月はドイツで一般人・企業経営者・大学教授・武道家等、多くの人達と接し、ドイツ人は「しっかりしている」と改めて感じ、いつの間にか戦後66年を経てユーロ圏は「ドイツが盟主」になっていて、各国首脳が「メルケル首相詣で」をしている実態に、新鮮な驚きを感じています。</p>

<p>ドイツ人がしっかりしている事例として「武道家が武士道を一人で理解した経緯」と、ハンブルグのＭｉｎｉａｔｕｒ　Ｗｕｎｄｅｒｌａｎｄ　ミニチュア・ワンダーランドでの新鮮な驚きと集客力について解説いたしましたが、これらと鉄舟の茨城県・伊万里県での行動は</p>

<p>①	想像する県知事と異なる発想の人物⇒新鮮 <br />
②	行動がダイナミック⇒面白い<br />
③	定めた目標を達成したら直ちに辞任する⇒驚き</p>

<p>という三項目と類似している内容を解説申し上げました。</p>

<p>何事にも成功する背景には共通する「セオリー」があり、それは時代を超えたものであるともお伝えしました。</p>]]>
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<title>駿府・静岡での鉄舟・・・其の三</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tessyuu.jp/archives/2011/11/post_350.html" />
<modified>2011-11-21T21:59:56Z</modified>
<issued>2011-11-21T21:54:23Z</issued>
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<summary type="text/plain">山岡鉄舟　駿府・静岡での鉄舟・・・其の三 山岡鉄舟の立場は慶応四年（１８６８）三...</summary>
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<name>Master</name>

<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>鉄舟研究</dc:subject>
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<![CDATA[<p>山岡鉄舟　駿府・静岡での鉄舟・・・其の三</p>

<p>山岡鉄舟の立場は慶応四年（１８６８）三月以降急変した。</p>

<p>上野寛永寺大慈院に謹慎・蟄居している慶喜から命を受け、駿府の西郷との交渉に向かった時の身分は、慶喜護衛を担当する精鋭隊頭格にすぎず、俸禄は百俵二人扶持で御目見以下の御家人であった。</p>]]>
<![CDATA[<p>それが、徳川幕府が瓦解し、上野彰義隊の壊滅後の徳川宗家を継いだ家(いえ)達(さと)に新政府から新たに禄高七十万石が示された慶応四年五月には、<br />
「勝安房守、織田和泉守、山岡鉄太郎、岩間織部正に若年寄幹事役被仰付。御政治向に関するご用向は、すべて取扱い候、その意を得らるベく候」（慶応四年五月二十二日江湖新聞）<br />
とあるように若年寄という破格の立場になった。</p>

<p>若年寄とは老中に継ぐ幕府政治の要職である。だが、この当時、幕府政治に携わっていた老中や若年寄の旧大名は藩地に戻ったので、それら大名に代わって徳川藩の者が若年寄に就いたのであるが、その中に鉄舟がいたという事実は重要である。</p>

<p>それは、幼少より自らを鍛え続けた鉄舟の生き方が、自らの素質を見事に顕現化させ、幕府崩壊という混乱期の困難な時代に立ち向かえることができる人物に育てたことを示している。</p>

<p>さらに、徳川藩が静岡藩に変わった明治元年（１８６８）には、勝海舟と共に幹事役となっている。これは国立公文書館内閣文庫の「駿河表之召連候家来姓名録」から明らかで、明治二年（１８６９）正月作成の「役名便覧」でも海舟と一緒に幹事役と記されている。</p>

<p>その次は、明治二年（１８７０）九月で、新たに静岡藩権大参事・藩政補翼として名簿に記載されている。権大参事とは幼い藩主家達の年齢から考え、事実上の県知事に当たる立場と考えて間違いないが、この職務には九名が任じられそれぞれ役割を分担した。</p>

<p>政治掛は浅野次郎八、軍事掛は服部綾雄、会計掛は河野九郎、郡政掛は織田泉之、刑法掛は冨永雄造、公用兼監正掛は戸川平太、藩政補翼が鉄舟、藩政補翼兼御家令は大久保一翁、公議人は妻木務である。</p>

<p>ここで当時の状況について少し触れておきたい。</p>

<p>明治二年六月、二百七十四大名に版籍奉還が行われ、土地と人民は明治新政府の所轄するところとなったが、各大名は知藩事（藩知事）として引き続き藩（旧大名領）の統治に当たり、これは幕藩体制廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。</p>

<p>一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ、中央政府から地方長官として府には府知事、県には県知事がおかれた。これが明治元年末には九府三十県となっていた。このように地方行政を三つに分割統治していたので、これを府藩県「地方三治制」という。</p>

<p>この府藩県制の中、特に静岡藩は複雑な要因を内蔵していた。その最も大きなものは徳川家臣とその家族の大量移住である。前号で見たように家臣の静岡での生活は激変し、特に衣食住問題への対応は厳しく苦しかった。</p>

<p>権大参事としての鉄舟は、徳川家を頼って駿府に移住してきた家臣達に対し、最大の配慮を図るべく対応したが、一気に増えた移住者によって食料が不足し、それが一般民衆の生活まで影響し、難しい困難な政治運営とならざるを得なかった。この対応策として進めたのが牧ノ原などの荒蕪(こうぶ)の開墾である。今の牧ノ原茶畑であり、これについては後日詳述する。</p>

<p>第二には禄高七十万石にするために、幕府直轄地であった三河国御領と旗本領以外の、駿河国・沼津、小島、田中（藤枝）三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀（掛川市の一部）、浜松の四藩、計七藩が千葉に移った後にも移住者を当て込み、そこに新たに奉行を配置し政治を行ったが、この地でも同様の問題が生じた。</p>

<p>第三には討幕軍が静岡地区を通過する際に現出したように、駿府地区特産のお茶が諸外国へ輸出され、未曽有の好景気をもたらした幕府支持層と、幕藩体制下で疎外されていた遠州報国隊、駿州赤心隊、伊豆伊吹隊などの、神職中心の倒幕運動層との間に発生した殺傷事件問題である。</p>

<p>これらの静岡藩政治に鉄舟は全力を尽くし、奮闘したわけであるが、この時の鉄舟を助け働いたのは高橋泥舟であり、井上清虎であり、中条金之助、松岡万、村上忠政らかつてからの仲間であった。</p>

<p>高橋泥舟は志田郡田中の奉行、中条金之助と松岡万も奉行として多くの移住者を受け入れ、井上清虎は浜松兼中泉奉行となり晩年に第二十八国立銀行の頭取となった。</p>

<p>しかし、ここで不思議なことは、江戸無血開城を一緒に成し遂げた海舟が、明治二年九月の静岡藩役職名簿に権大参事として名がないどころか、他の役職にもついていない。名簿から名前が消えているのである。どうしたのであろうか。</p>

<p>実は、海舟は明治二年四月に静岡藩に退身書を提出し東京に戻って、同年七月に新政府から外務大丞に任命されていた。しかし、大丞は大官ではあるが、局長級の階級であることが理由と思われるが、海舟は直ぐに辞退している。次に再び同年十一月に兵部大丞を任命されたが、これも即日辞退し、十二月に静岡に戻っている。</p>

<p>しかし、翌明治三年（１８７０）三月には太政官より東京に来るべく旨が出され、六月に東京に行ったが、同月に再び静岡に戻っている。</p>

<p>このように海舟は、静岡と東京を行ったり来たりであるから、当然のごとく静岡藩での役向きには適せず、明治五年（１８７２）には東京赤坂氷川町の広い元旗本屋敷を買い取って転居し、静岡からは完全に去ったのである。</p>

<p>また、この年の五月に海軍大輔に任ぜられ新政府入りし、翌六年（１８７３）に参議兼海軍卿の栄職についた。</p>

<p>このような海舟の行動、当初から静岡藩での役割は毛頭考えず、新政府での立身出世だけを狙っていたのであろうか。それとも海舟を新政府が強く求めたのであろうか。</p>

<p>この海舟の身の処し方に対し、福沢諭吉が明治二十四年に「痩せ我慢の説」で批判したことは有名であるが、この件について語るには、一筋縄で計れない海舟という人物と、激変時代で遭遇した複雑な背景環境の分析、併せて福沢から一緒に批判された榎本武揚についても触れなければならず、榎本を述べるためには侠客の清水次郎長について、次郎長を取り上げると鉄舟との関連を詳しく検討しなければならないので、後日、改めて詳しくお伝えする。</p>

<p>しかし、事実としていえるのは新政府の人材不足と、徳川幕府には有能な人材が多くいたということであって、そこに新政府が目を付け、静岡から多くの人達が新政府に引き抜かれたということである。</p>

<p>その一例として渋沢栄一を挙げたい。渋沢栄一は埼玉県の農家出身であるが、縁あって一橋慶喜に仕え、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、万博視察とヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行して、各地で先進的な産業・軍備を実見したように、当時としては稀有の体験を持った人物であって、その後の活躍によって日本資本主義の父といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人である。</p>

<p>この渋沢がフランスから帰国し、静岡に在住している時に、新政府から強く求められ仕官した経緯について、自叙伝「雨夜譚」の中で語っているので紹介したい。なお、「雨夜譚」を雨夜譚(あまよがたり)＊（岩波文庫）とも雨夜譚(うやものがたり)（日本図書センター）とも読むが、まずはパリから静岡に向かった理由からである。</p>

<p>「当時朝廷に立って威張って居る人々は何れも見ず知らずの公家か諸藩士か、又は草莽(そうもう)＊から成り上がった人ばかりで、知己旧識というは一人もいない。熟(つらつ)ら既往の事を回顧してみると、幕府を倒そうとして様々苦慮した身が反対に倒されて、亡国の人になって殆ど為すべき道を失ったのだから、残念でもあるが又困却もした。さればといって、目下羽振りのよい当路の人々に従って新政府の役人となることを求むるのも心に恥ずる所であるから、仮令(たとい)当初の素志ではないにもせよ、一旦に前君公（慶喜）の恩遇を受けた身に相違ないから、寧(いっ)そ駿河にいって一生を送ることに仕よう、又駿河にいって見たら何ぞ仕事があるかもしれぬ、若し何にもする事がないとすれば農業をするまでの事だと、始めて決心をしました」（日本図書センター刊、以下引用同じ）</p>

<p>次に、得意の商業活動に居所を見出した経緯についてである。</p>

<p>「この先き静岡に住居するには、農商いずれの業に従事したら宜いかという一段に至っては、頗(すこぶ)るその採択に苦慮しましたが、その頃新政府から諸藩へ石高拝借ということを許されました。これは御一新に付いて金融に著しき窮迫を告げた所から、凡(およ)そ五千万両余の紙幣を製造して、軍費その他の経費を支えたが、その紙幣は民間の流通があしきゆえ、それを全国に流布させんが為め、諸藩の石高に応じて新紙幣を貸し付け、年三歩の利子で十三箇年賦に償却するという方法でありました。・・・中略・・・静岡藩への割付総額は七十万両程であって、その年の末までに新政府から交付せられた金高は五十三万両だということは、自分が駿河へ往くと直に人から聞いて居ったに依って、前にもいう通り、商業にて聊(いささ)＊か効能を顕わしたいと様々工夫して居た際であるから、この石高拝借の事に付いて一つの新案を起こしました」</p>

<p>渋沢はこの政府紙幣を資本とし、これに徳川幕府がパリ万国博に出品した物産の売上金を加え、さらに静岡の商人からの出資も入れ、官民合同の合資会社ごときものを設立したのである。</p>

<p>「詳細に方法を認めて、計算書までも添えて平岡（勘定頭）の手へ差し出したのは、明治元年の歳末でありました。明くれば明治二年の春、平岡は右の方法書に拠って終に藩庁の評議を決して、静岡の紺屋町という処に相当の家屋のあったのを事務所として、商法会所という名義で一の商会を設立し、地方の重立った商人十二名に用達を命じ、恰も銀行と商業とを混淆したような物が出来ました。自分は頭取という名を以てその運転上の主任になって業務を執ることになった」</p>

<p>この頃は全国各地で静岡と同様の原始的な会社企業が設立されていたが、殆どはうまく運営できなかった。だが、渋沢はフランスで学んだ企業経営の知識を活かし、参加した商人たちを巧みに指導し、設立後の運営を順調に推移させた。</p>

<p>渋沢自身は、以下述べるように、設立後まもなく新政府に引き抜かれたが、静岡商法会所は後に常平倉と改称され、県内物産の輸出、士族の授産事業、青田貸しという農村金融など手広く営業して、明治六、七年頃には負債を解消した。</p>

<p>このように成功させた渋沢は後に、日本の産業資本のほとんどの分野に巨大な足跡を残すのであるが、その下地はこの静岡商法会所の成功にあったといえよう。</p>

<p>その渋沢を新政府への引き抜きであるが、そのキッカケを「雨夜譚」で次のように語っている。</p>

<p>「諸事追々整理して来たから、今二三年を経たならば堅固で有益なる商業会社が成立するであろうと予め企望をして、精々注意して居ました。処がその歳の十月二十一日に、朝廷からの御用とあって、その頃太政官に弁官といって大弁、中弁、小弁という官職があったが、その弁官から自分に宛てた召状が来て、早速東京へ出ろということであると、藩庁から通達を受けました」</p>

<p>この通達に対し、渋沢はようやく商法会所の目途がついた時であり、新政府に仕えたくないと藩に申し出たが、藩としては朝旨によるお召で、断れば有用の人材を隠蔽するということになり、藩主に御迷惑をかけることになるから、とにかく一応出京するよう命令され、やむを得ず新政府に出向いた。</p>

<p>この時に渋沢を引き抜くよう動いたのは、新政府の民部省を握っていた大隈重信であった。この当時の民部省は、後に大久保利通が支配した内務省の前身になるもので、現在の内政全般を担当する国内行政の元締めみたいな役所だった。</p>

<p>大隈は大きな仕事を遂行するために貪欲に人材を求め、政府の有能な人物はすべて民部省に集まるといわれていた。</p>

<p>大隈は後に立憲改進党を創設し、総理大臣になり、早稲田大学を創立、明治時代の開明主義者の大物で、人に偏見をもたず、包容力が大きく、理想の高い大隈のもとには、尾崎行雄、犬養毅、高橋是清等のそうそうたる逸材が集まって、民部省は最も活動的で野心ある若者があこがれる役所だった。</p>

<p>その大隈が渋沢をこう言って説得したと「実業の世界・明治四十三年四月号」に掲載されている。（「徳川家臣団・第二編」前田匡一郎著）</p>

<p>「いまの日本は、幕府を倒して王政に復したのである。しかし、それだけで我らの任務は未だ全うしたとは言えない。さらに進んで、新しい日本を建設するのが我々の任務である。だから、今の新政府の計画に参与している者は、すなわち八百万(やおよろず)＊の神達である。その神達が集まって、これからどういう具合に日本を建設しようかとの相談の最中である。何から手をつけてよいのかわからないのは君ばかりではない。皆わからないのである。</p>

<p>今のところは、広く野に賢材を求めてこれを活用するのが何よりの急務である。君もその賢材の一人として採用されたのだ。すなわち八百万の神達の一柱である。君が慶喜公の鴻(こう)恩(おん)を思い、公にために尽くしたいと言うのは無理もない話であるが、なにも側にいないとて尽くそうと思えば充分尽くすことができる。商法会所の経営も宜しかろう。しかし、その仕事は僅かに静岡県の一部に限られている仕事である。我々がこれからやろうと言う仕事はそんな小さなものではない。日本という一国を料理する極めて大きな仕事である。</p>

<p>どうか君も折角八百万の神達の一柱として迎えられたのだから、この大きな仕事のために、是非骨を折ってもらいたい」</p>

<p>大隈は演説の名人で、日本の雄弁術の元祖といわれる人物である。その大隈からこのような殺し文句で説かれては、渋沢ともいえども抵抗できない。この時の心境を「雨夜譚」で語っている。</p>

<p>「大隈大輔のお説を聴くと、成程尤も千万な意見であるし、強(た)ってお断り申す適当の返辞も出来なかったので、一応宿に戻ってなお熟孝する旨を答えてその場は別れたのであった。さて、宿に戻って種々(いろいろ)考えて見ると、大隈さんの議論が正当であり、私の我儘を通すべきでないように考えられたので、ここに初志を翻して明治政府に仕える決心をなし、その後三度大隈大輔を訪問して、御説諭に従い明治政府に御仕え申す決心をした事を御返辞したのであった」</p>

<p>この時に渋沢とともに民部省に引き抜かれたのは前島密で、少し遅れて杉浦譲が加わった。この三人によって多くの大事業が遂行され、大隈はこの三人を常に掘り出し者だったと述懐していたという。</p>

<p>さて、海舟についても同じような雄弁で新政府に引き抜いたのであろうか。それとも海舟には幕府崩壊後も日本国のために意図する何かがあったのだろうか。次号に続く。<br />
</p>]]>
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<title>2011年11月例会のご案内</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tessyuu.jp/archives/2011/10/201111.html" />
<modified>2011-10-26T02:56:33Z</modified>
<issued>2011-10-26T02:49:15Z</issued>
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<summary type="text/plain">山岡鉄舟研究会2011年11月16日開催についてご案内申し上げます。 開催日　2...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会のご案内</dc:subject>
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<![CDATA[<p>山岡鉄舟研究会2011年11月16日開催についてご案内申し上げます。</p>

<p><strong>開催日　2011年11月16（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　18：30から20：00<br />
参加費　1500円<br />
発表者　末松正二氏と山本紀久雄が担当いたします。</strong></p>]]>
<![CDATA[<p>①	末松正二氏・・・「終戦工作」を12月例会に渡って二カ月ご発表頂きます。本年12月8日は、真珠湾攻撃70周年で、4年後弱の1945年8月に終戦となりました。この終戦を成し遂げた功労者は226事件で奇跡的に一命が助かった二人の海軍軍人であったという、実に不思議な因縁話しから展開されます。昭和史を改めて理解する絶好の機会ですので、ご期待願います。</p>

<p>②	山本紀久雄・・・今年は鉄舟が伊万里県に赴いてちょうど百四十年に当る事から、佐賀県美術館で特別展「山岡鉄舟」(平成23年12月～24年1月15日)が開催されますが、これに合わせ鉄舟が伊万里県（佐賀県）知事として赴任した背景を分析いたします。<br />
　　　　佐賀藩は薩長土肥という討幕軍の中で最も科学的に優れていた藩でした。その証明が上野彰義隊をたった一日の戦いで壊滅させた最大要因である「アームストロング砲」を、唯一製造し保有していた事からも分<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/021.jpg"><img alt="021.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/021-thumb.jpg" width="255" height="150" /></a><br />
かります。<br />
　  <br />
　　　　<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/020.jpg"><img alt="020.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/020-thumb.jpg" width="200" height="150" /></a></p>

<p><br />
　　　（佐賀城本丸歴史館展示）<br />
　　　<br />
　また、幕末時は名君鍋島直正閑叟（かんそう）が藩主で、借金だらけの財政を再建し、豊かな佐賀藩に仕上げ、討幕軍の主力として活躍したわけですから、「県内不穏」という理由で鉄舟が県知事として赴任するのは不思議です。<br />
しかし、明治初年宮武外骨（明治〜昭和期のジャーナリスト）が、難治県として佐賀、鹿児島、高知、山口、石川、愛媛、酒田の７県を挙げているように、明治維新に貢献した薩長土肥の四県が難治県となった理由、特に佐賀県が難治県のトップに挙げられた背景と、鉄舟がどのような治世を行ったのかについて解説いたします。</p>

<p>３．12月例会は以下のように開催いたします。<br />
開催日　2011年12月21（水）<br />
場所　　東京文化会館第一中会議室<br />
時間　　１８：３０から２０：００<br />
　　　発表者　末松正二氏と山本紀久雄が担当いたします</p>

<p>①	末松氏のご発表は11月に引き続き「終戦工作」です。</p>

<p>②	山本紀久雄の発表は、鉄舟研究を行います。<br />
以上<br />
</p>]]>
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<title>山岡鉄舟研究会2011年１０月開催報告</title>
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<modified>2011-10-26T02:48:40Z</modified>
<issued>2011-10-26T02:44:54Z</issued>
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<summary type="text/plain">山岡鉄舟研究会2011年10月開催結果を案内申し上げます。 　　　　 １．201...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会の報告</dc:subject>
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<![CDATA[<p>山岡鉄舟研究会2011年10月開催結果を案内申し上げます。<br />
　　　　<br />
１．2011年10月開催結果<br />
① 	北川宏廸氏・・・　2006年3月の例会で北川氏が「必勝の剣法はある・・・剣の『理』と『技』をめぐる数理」に続くご発表でした。</p>

<p><strong>「活人剣（かつにんけん）」と「殺人刀（せつにんとう）」<br />
――「必勝の剣法」はある、それが≪武士道≫だ――</strong></p>]]>
<![CDATA[<p>この内容、大変参考になり、興味深く、鉄舟剣法を新たなる視点から分析し、加えて、数式と図表を持って解説しておりますので、その全文を北川氏のご了解を受けまして、以下に掲載いたしましたので、是非、ご一読されます事をお薦めいたします。<br />
　　　　http://www.tessyuu.jp/archives/2011/10/post_349.html#more</p>

<p>②末松正二氏・・・繆斌（みょうひん）工作について<br />
　　末松氏には、今年1月に「盧溝橋事件」、4月に「朝日テレビドラマ『遺恨あり～明治１３年最後の仇討』についての解説」を頂き、今回は、殆どの人が知らない「繆斌工作」についてご発表を特にお願いいたしました。<br />
繆斌工作とは、1945年3月の戦況悪化著しい時、繆斌が以下の和平条件を持って来日した事実です。<br />
●日本の中国本土からの撤退、<br />
●満州国、台湾は現状維持、<br />
●蒋介石が米国との和平を仲介する<br />
これを当時の小磯首相が最高戦争指導会議に提案しましたが、結局、昭和天皇の反対もあり受け入れなかったのですが、平成3年5月21日に繆斌の慰霊碑を中央区鉄砲稲荷神社に建立したように、顕彰行動をしている人達もいるわけで、その状況を含め当時の生々しい実態を解説頂きました。<br />
11月と12月は末松氏から「終戦工作」についてご発表頂きます。昭和時代を過ごした我々が知るべき「昭和史」を学ぶ機会を大事にしたいと思います。</p>

<p>③山本紀久雄・・・山岡鉄舟という偉大な人物を改めて考察いたしました。<br />
鉄舟はご存じのように、西郷隆盛の「南州翁遺訓」に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と評された人物です。<br />
この評価を現代人の眼から判断すると大きな誤りで、当時の武士階級の常識から判断すべきで、改めて、当時の常識から検討しても鉄舟はけた外れの人物であった背景を解説いたしました。<br />
また、大久保利通が鉄舟を茨城県知事に強く推した背景について、水戸藩と長州藩を財政・産業・人口面から分析し、尊皇攘夷思想を同じく持ちながら、水戸藩は幕末低迷の上人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出した、その差と要因について解説いたしました。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>「活人剣(かつにんけん)」と「殺人刀(せつにんとう)」</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tessyuu.jp/archives/2011/10/post_349.html" />
<modified>2011-10-28T11:19:19Z</modified>
<issued>2011-10-26T02:06:10Z</issued>
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<summary type="text/plain">「活人剣(かつにんけん)」と「殺人刀(せつにんとう)」 ──「必勝の剣法」はある...</summary>
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<email>webmaster@tessyuu.jp </email>
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<dc:subject>例会の記録</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong>「活人剣(かつにんけん)」と「殺人刀(せつにんとう)」<br />
──「必勝の剣法」はある、それが《武士道》だ──</strong><br />
                                                                                                    ２０１１年１０月１９日<br />
                                                                                                          北　川　宏　廸</p>

<p>　</p>

<p>　本日、この山岡鉄舟研究会で是非お話ししたいのは、世の中には何ものにも負けない「必勝の剣法」が存在する、ということについてである。</p>

<p>　結論を先に言えば、山岡鉄舟がいう《武士道》とは、実は、この「必勝の剣法」のことをいっているのである。</p>]]>
<![CDATA[<p>剣法の実際の「理」と「技(わざ)」を《言葉》で表現するのは、大変むつかしい。</p>

<p>なぜなら、われわれが五感で認識し、判断し、行動（行為）する、剣法の「理」と「技」を表現する言葉の論理は非常に甘いし、また、われわれの認識には、事実から乖離したある種の思い込みやバイアスが含まれているので、実際に起きている事実をそのまま記述すること自体、そもそも不可能であるからだ。</p>

<p>　したがって、本稿では、剣法を《言葉》で説明しつつ、そのポイントとなる部分では、自然科学者が自然現象記述の手段として使用する「数式」の力を借りて、この「必勝の剣法」の存在を明らかにしたいと思う。</p>

<p><strong>山岡鉄舟の剣法は<br />
「一刀正伝無刀流」 </strong><br />
　<br />
山岡鉄舟は、自らの剣法を「一刀正伝無刀流」と名付けている。</p>

<p>　鉄舟の剣法は、一言でいえば、鉄舟自身が「剣法と禅理」（ 明治１３年(１８８０年)、鉄舟４５歳のとき ）のなかで述べているように、流祖・伊藤一刀斉景久の流れを継ぎ、当時、「一刀流」の達人といわれた師範の浅利又七郎義明から学んだ「一刀流剣法」の奥義を、そのとき、京都天龍寺の管長であった禅僧・滴水から鉗鎚（けんつい）を受けた「無相」の禅理───すなわち、「見性悟入」（太刀を用いないで天道発源の心理の極致に悟入すること）の禅理───に、帰一させたところにある、といってよい。</p>

<p>　鉄舟は、「一刀流兵法箇条目録」（ 明治１５年(１８８２年)、鉄舟４７歳のとき ）のなかで、次のように述べている。</p>

<p>　「 抑々 当流刀術を一刀流と名付けたる所以のものは、元祖伊藤一刀斉なるを以ての故に一刀流と云ふにはあらず。一刀流と名付けたるは、其気味（注、含むところ）あり。万物大極の一より始まり、一刀万化して、一刀に治まり、又一刀に起るの理あり。又曰く、一刀流は活刀を流すの字義あり。流すは〝すたる〞（以下、括弧〝〞は、筆者）の意味なり。当流〝すたる〞ことを要す。〝すたる〞といふは、一刀に起り、一刀に〝すたる〞ことなり。然れども其〝すたる〞の理通じ難し。於是か、さきより門前の瓦（かわら）と云へるたとへあり。瓦を以て門をたたき、人出で門開く、此時用をなしたる程に、瓦を捨つ可きを、其儘持て席上に通らば、かへって不用品とならん、是を捨てざるゆえなり。業（わざ）も亦然り、打つべきところあらば、一刀を打ちて用をなしたる故、ここに〝すたる〞ことあらば、またおこる、万化すといへども、みなしかり。打って打たざるもとの心となる、これ刀〝すたる〞の至極なり。」</p>

<p>　すなわち、鉄舟は、自らの剣法「一刀正伝無刀流」の理を、「一刀に起こり、一刀に〝すたる〞」ところにあるというのだ。</p>

<p>　ここで、〝すたる〞という自動詞は、「なきものになる」「あとに残さない」「終わる」「もとに治まる」「はじめに戻る」などの意味で使われている</p>

<p>　また、鉄舟は、「剣法邪正弁」（ 明治１５年(１８８２年)、鉄舟４７歳のとき ）のなかで、「一刀正伝無刀流」の極意を、次のように披瀝している。</p>

<p>　「夫れ 剣法正伝真の極意者（は）、別に法なし。敵の好む処に随ひて勝を得るにあり。敵の好む所とは何ぞや、両刃相対すれば、必ず敵を打んと思ふ念あらざるなし。故に我体を総て敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝と云ふ。譬へば、箇（はこ）の中にある品を出すに、先ず其蓋を去り、細に其中を見て品を知るがごとし。」</p>

<p>　さらに、前述の「一刀流兵法箇条目録」のなかで、「一刀正伝無刀流」のポイントとなる点を、十二箇条あげている。</p>

<p>一、二之目付（にのめつけ）之事<br />
　　　（ 敵を見るポイントは、太刀の「切っ先」と、敵の「拳」（こぶし）の２点にある ）<br />
二、切落（きりおとし）之事<br />
　　　（ 自分の太刀を切り落とすと、何時の間にやら敵の「拳」にあたる、無拍子の拍子 ）<br />
三、遠近之事<br />
　　　（ 敵の為には打つ間が遠くなり、自分の為には打つ間が近くなること ）<br />
四、横竪上下之事<br />
　　　（ 横竪上下とは、真ん中のこと。上より来るものは下より応じ、下より来るものは上より応じ、横より　　　　来るものは竪に応じ、竪に来るものは横に応じ、心はいつも中央に在って、気配自由なること ）<br />
五、色付之事<br />
　　　（ 色付とは、敵の色（気配）に付くな、ということ ）<br />
六、目心之事<br />
　　　（ 目心とは、目を見るな、心でみよ、ということ ）<br />
七、狐疑心之事<br />
　　　（ 狐疑心とは、疑心を起こすな、ということ ）<br />
八、松風之事<br />
　　　（ 松風とは、合気（拍子）を外せ、ということ ）<br />
九、地形之事<br />
　　　（ 地形とは、順地（つま先下がり）逆地（つま先上がり）のこと。順地は敵を拳下りに打つため有利、　　　　よって敵を逆地におけ、ということ ）<br />
十、無他心通之事<br />
　　　（ 無他心通とは、敵を打つ一遍の心になれ、ということ ）<br />
十一、間之事<br />
　　　（ 間とは、敵合いの間のこと。自分の太刀下三尺、敵の太刀下三尺、とみて、六尺の間。一足出さ　　　　ねば敵にあたらぬ故、打つもつくも、一足一刀。この間合いが大事 ）<br />
十二、残心之事<br />
　　　（ 残心とは、心を残さず打て、ということ。心惜しまず〝すたれ〞ということ ）</p>

<p>　鉄舟が、このように、一ヵ条づつあげて、十二ヵ条目録を掲げたのは、剣法は、一刀よりおこって、万剣に化し、また、万刀一刀に帰す、と考えたからだ。</p>

<p>　これはちょうど、一年に十二ヵ月があり、一陽に起こって、万物造化し、陽中陰をめぐみて、万物生じ陰ここに極まりて、年月つくるものと見れば、陰中陽を発して、またいつか青陽の春にかへるようなに、自然の摂理は、必ず陰陽をくりかえす。</p>

<p>　したがって、「一刀正伝無刀流」の鍛錬や修業も、「一よりおこりて十二に終る、而してまたもとの一にかへりて、つくることなし、またもとの初心にかへり、またもとにかへり、無量にして極りなき心に至る」のだ、というのである。</p>

<p>　要すれば、鉄舟の剣法は、敵の好む処をよく見極め、敵の動きに随い、こちらが主導権をとって、敵の「切っ先」と「拳」に目をつけ、迷わず、間髪を容れず、無拍子の拍子で、心残さず、敵の「拳」を一刀両段に打ち据えよ、ということに尽きるといってよい。</p>

<p>　実は、鉄舟の剣法は、後でお話しする、上泉伊勢守を流祖とする「柳生新陰流」の剣法「活人剣」（かつにんけん）そのものだったのである。鉄舟は生涯一度も、幕末の混乱のなかにあっても、刀で人を斬ったことはなかった。</p>

<p><strong>山岡鉄舟のいう<br />
「武士道」とは</strong>　</p>

<p>では、鉄舟は、兵法の道である「武士道」を、どのように考えていたのか。</p>

<p>　これが明らかになるのは、鉄舟が著した「武士道」（ 万延元年(１８６０年)、鉄舟２５歳 のとき）のなかの次の一文だ。</p>

<p>　「 わが邦人に、一種微妙の通念あり。神道にあらず、儒道にあらず、仏道にもあらず、神。儒。仏。三道融和の通念にして、中古以降専ら武門に於て、其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ。然れども未だ曾て文書に認め、經に綴って伝ふるものあるを見ず。」</p>

<p>　そして、鉄舟は、「武士道」を次のように定義する。</p>

<p>　「 武士道は、（中略）善悪の理屈を知りたるのみにては武士道にあらず、善ありと知りたる上は、直に実行にあらわしくるをもって、武士道とは申すなり。」</p>

<p>　そしてまた、</p>

<p>　「武士道は、本来心（道理、すなわち天地の心理）を元として、形（行為）に発動するものなれば、形は時に従い、事に応じて変化変転極まりなきものなり」と。</p>

<p>　すなわち、鉄舟は、「武士道」で大切なのは、起きている事の善悪を天地自然の道理に照らして判断する「判断力」だけではなく、その判断に基づき自分の目前で起きている事態の改善に向けて行動を起こす「決断力」の方にある。その行動は、これから起きる不測の事態に対して、常に「臨機応変」でなければならない、と考えたのである。</p>

<p><strong>「必勝の剣法」<br />
の二つの流れ</strong></p>

<p>　剣法の歴史をみると、戦国時代が終わった１６００年の関ヶ原の戦いを境にして、「介者剣法」（鎧をつけた兵士の剣法）から、「素肌剣法」（甲冑を身につけない剣法）への大きな流れの転換がみられる。<br />
　すなわち、「殺人刀」（せつにんとう）の介者剣法から、「活人剣」（かつにんけん）の素肌剣法への移行だ。<br />
「活人剣」の原形はすべて介者剣法の中にある。介者剣法から剣法のエッセンスを抽出したのが、「柳生新陰流」の上泉伊勢守であった。</p>

<p>　介者剣法は、重たい兜を被り、鎧をまとって戦った戦国時代の剣法だ。甲冑での戦いは重たい兜や鎧を着けているため、重心を低くした「沈なる身」での斬り相いとなる。<br />
　この剣法の極意は、とにかく「相手の拳（こぶし）を斬ること」であった。なぜなら、甲冑から露出していて、こちらから一番近いところにあるのが、相手の拳であるからだ。</p>

<p>　介者剣法では、「切っ先三寸」（太刀の先端から三寸、約９センチ）で、相手の長さ三寸ほどの拳を斬ることを「三寸二つ」と教えている。</p>

<p>　さらに、相手の拳を斬るために、「十文字勝ち」をいう教えがある。たとえ敵がどのように打ってきても、敵と正対し、自らの《人中路》を、真っ直ぐ、一刀両段（新陰流では「断」ではなく、「段」という）に断つように斬ると、必ず敵の拳が斬れる、という教えだ。</p>

<p>　人中路とは、自らの身体の中心を貫くラインのことだ。敵の人中路と、自らの人中路を合わせて、自らの人中路を断つように斬ると、切っ先三寸で相手の拳が斬れるのである。</p>

<p>　介者剣法では、この刀法を「拳を見て拳に勝つ」と言い習わしてきた。</p>

<p>伊勢守の活人剣でも、やはり、自らの《人中路》のこの「十文字勝ち」が、剣法の「技」の根幹におかれている。</p>

<p>　しかし、介者剣法の「理」の根元は「殺人刀」にある。殺人刀は、自分の得意とする技に磨きをかけて、その得意技を生かしてスピードとパワーで敵に勝つ、という考え方だ。</p>

<p>　殺人刀の「殺人」（せつにん）とは文字通り、人を殺すという意味ではない。「殺」とはスピードとパワーで敵を威圧し、委縮させることをいう。</p>

<p>一対一の斬り相いは、相対する二つの存在の熾烈なぶつかり合いになるが、殺人刀で勝てるのは相手に対して自らの実力が勝っているときに限られる。</p>

<p>　つまり、殺人刀では勝つチャンスもあれば、負けるリスクもある。勝敗がどちらに転ぶかは、実際に剣を交えるまでわからない。</p>

<p>　しかし、江戸時代に入り、「大坂の役」を最後に大規模な合戦はなくなり、天下泰平の世となった。<br />
　ここで剣法は、「介者剣法」から「素肌剣法」へと大きくパラダイムシフトする。剣法の「理」が「殺人刀」から「活人剣」に変わったのである。</p>

<p>　活人剣は、殺人刀の「殺」が、敵を威圧してその働きを殺す意味だとしたら、活人剣の「活」は、敵を働かせて、敵の働きを利用して、それに対応して勝ちを得る、という柔軟な考え方をとる。この考え方を突きつめていくと、自分と敵の関係を見極めて、自分と敵を共に生かす、という生き方につながっていく。</p>

<p>　敵を先に働かせて、そのスピードとパワーに応じて、無形の位から自由闊達に剣をふるって勝つ。相手は「斬った」と思っているのに、いつの間にか斬られている。これが活人剣が想定するところの《必勝の方程式》だ。</p>

<p>　実は、武士道は、「殺人刀」の介者剣法から「活人剣」の素肌剣法への移行期に、そもそも、剣法の「普遍的価値」とは何なのか───さらにいえば、権力を握りこの世の中を統治する《武士》という支配者階級に求められる「真実の道」とは何なのか───という重い課題を、真摯に追求するところからはじまったのである。</p>

<p>　すなわち、《武士道》とは、人間の生き方の、兵法における「真実の道」を発見することだったのだ。</p>

<p>　「真実の道」は、何も兵法にだけあるのではない。それは、およそ技術をもち、道具を用いて生きていく、あらゆる「人間」と「人間」の間に無数に存在する《 間合い＝「時間」と「空間」 》において、極めて有効に作用しているところの語りがたき「理外の理」の働きなのである。</p>

<p>　だから、武士道は、人間の《観念》のうちにあるのではなく、人間の有効な《行為》のなかにある。<br />
しかし、有効な行為の理論は、あまりに精妙で、これを観念によって極めることが不可能であることから、人は器用・不器用などという曖昧な《言葉》で済ませようとする。</p>

<p>これを曖昧にせず、《器用》という言葉の中に含まれる「理外の理」を突きつめること、これがまさに《武士道》だったのである。</p>

<p><strong>「上泉伊勢守」<br />
と「宮本武蔵」</strong><br />
　<br />
この「介者剣法」から「素肌剣法」への移行期にあらわれたのが、柳生新陰流の流祖・上泉伊勢守と、宮本武蔵だった。</p>

<p>　伊勢守は室町時代末期の１５０８年頃生まれ、戦国時代の真っただ中を生き、７５歳ほどで死んでいる。武蔵は、本能寺の変があった天正１０年（１５８２年）、ちょうど伊勢守が死んだ頃に生まれ、１６４５年の乱世が収束した時代に死んでいる。</p>

<p>　面白いことに、「活人剣」の創始者である伊勢守と入れ代るかたちで、最後の「殺人刀」最強の剣客であった武蔵が生まれてきたことだ。</p>

<p>　伊勢守の偉大なところは、戦国期のある特異な時点において、その時期に形成された新当流（神道流）、念流、陰流の３つの流れを修め、なかでも陰流を最も重んじ、それに自らの工夫を加えて、「新陰流」という新しい「活人剣」の流儀を創造したことだ。</p>

<p>　伊勢守の「活人剣」の奥義は、伊勢守が著した秘伝書『影目録』（全四巻）の『燕飛』の巻に収められている。</p>

<p>　また、武蔵の剣法は、武蔵が死ぬ２年前の寛永２０年（１６４３年）に書いた『五輪書』によって知ることができる。</p>

<p>　これを読むと明らかになるのは、両者の間に、剣法の「技」においては、寸分の優劣の差はなかったが、剣法の「理」において、両者の間に根本的な理解の差があった、ということだ。</p>

<p>　それは、「技」において優劣の差のない、相対峙する２つの存在が、〝いのち〞をかけて対決する「斬り相い空間」において、相対峙する２つの別々の太刀の、それぞれの回転運動を貫くところの「理」の違い──── つまり、２つの太刀のそれぞれに働く運動力学の違いをどう理解していたのか───という問題だ。</p>

<p>　武蔵の「殺人刀」では、太刀の運動力学の視点がまったく欠落しているのだ。</p>

<p>　「斬り相い空間」は、マトリクスで示すと、「空間軸」と「時間軸」の合成空間だ。「自分」の立ち位置は、両軸の交点０の空間軸上にある。相対峙する「相手」の立ち位置は、自分からみると時間軸上の《時間空間》のなかにある。<br />
運動力学の理論に従えば、太刀に同じ力が加えられたとしても、太刀の回転速度（スピード）は、時間軸上よりも、空間軸上の方が、回転スピードが速い。</p>

<p>つまり、空間軸上にいる「自分」の太刀の方が、時間軸上にいる「相手」の太刀よりも、斬り下ろす太刀のスピードが速い。「自分」は、常に相対優位のポジションにいるので、十分注意深く、かつ、臨機に対応できれば、「自分」は自然の理によって守られているのだ。</p>

<p>　伊勢守が「活人剣」を編み出したのは、「空間軸」と「時間軸」の隙間にある、この「理」に気がついたからではなかったのか。</p>

<p>彼は、これを「理外の理」というかたちで認識し、どうも「空間」と「時間」の関係を相対的なものとみていた節があるのだ。</p>

<p>　現代物理学の立場から言えば、伊勢守はアインシュタインの「相対性理論」の力学に立っていたのである。これに対して、武蔵には時間軸が存在しない。彼は、ニュートン力学の立場に立っていたのだ。</p>

<p><strong>柳生新陰流の<br />
剣法の「奥義」</strong></p>

<p>　柳生新陰流剣法の「奥義」とは何か。</p>

<p>　柳生新陰流を他流と隔てている柳生新陰流の奥義は、「性自然」と「転」（まろばし）という２つの理念を剣法の要においたことにある。</p>

<p>　一、「性自然」</p>

<p>　剣術では、心と身体、身体と太刀を自然と一体化させて、バランスよく動くことが理想だ。ところが人間は相手を斬りたいと気がはやると身体と太刀、手と足がバラバラになりがちだ。なまじ手が器用なため、手先のみに頼って相手を斬ろうとしたり、手が先に出て足が残ったりする。それでは自然の摂理から離れてしまう。</p>

<p>　新陰流では、「性自然」の状態を、「刀身一如」とか「心身一如」、また、「刀中蔵」、「神妙剣」あるいは「無刀取り」と教えている。</p>

<p>　「刀身一如」とは、太刀という道具と自分を一体化すること、「心身一如」とは、自分の心と身体を一つにすること、「刀中蔵」とは、相手から見たときに自分の身体を構えた太刀に隠す、という意味だ。</p>

<p>　「神妙剣」とは、「人知を超えた剣」という意味で、ありのままで滞りなく、怒りや怖れといった感情に左右されない純粋な心こそが、敵の千変万化の働きに対して自在に応じる太刀捌きの原動力になる、という教えだ。</p>

<p>　また、「無刀取り」とは、太刀を持って向かってくる相手に対して、太刀を持たない無刀の状態で立ち向かい、相手の太刀を奪って勝つ技だ。しかし、抜刀した相手に素手で立ち向かい、その太刀を奪取するのが無刀取りの目的ではない。</p>

<p>　太刀を持たない無刀のときに、人ははじめて太刀を持つ人の気持ちになれる。そのとき、本当に自分と敵が「自他一如」の状態になる。そうなると、必要以上に焦ったり、不利に思ったりせず、敵の気持ちになって、敵が斬りやすいように誘い出し、敵に斬り込ませて、これに対応することができる。</p>

<p>　無刀という究極のシミュレーションを介して、真剣勝負の本質を知ることができる、と教えるのだ。</p>

<p>　二、「転」（まろばし）</p>

<p>　流祖・伊勢守は、先にあげた秘伝書『影目録』のなかで、「転」（まろばし）の極意を、次のように説明している。</p>

<p>　「‥‥‥懸待表裏は、一隅を守らず。敵に随って転変して一重の手段を施すこと、恰も<br />
風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つが如し。懸、懸に非ず。待、待に非ず。懸は意待に在り。待は意懸に在り。‥‥‥‥」</p>

<p>　ここに出てくる、「懸待表裏」とは、相手との「斬り相い空間」を構成する重要な４つの要素のことだ。<br />
「懸」とは、先制攻撃を行うこと、「待」とは、敵の攻撃を待つこと、「表」とは、敵が構えた太刀の刃の方向あるいは前の方向から攻めること、「裏」とは、それとは逆に敵の構えた太刀の刃の裏から攻めること。また、「一隅を守らず」とは、いずれにもこだわらず、の意味だ。</p>

<p>　そして、伊勢守は、「転」とは、この「懸待表裏」の４つのいずれにもこだわらず、相手の出方に応じて柔軟に対応することなのだ、という。</p>

<p>　これは、水夫が潮風を見て船の帆を操り、猟師が兎の動きを見て鷹を放つのと同じで、攻めることは攻めることではない、守ることは守ることではない。攻めることは守ることであり、守ることは攻めることなのだと、伊勢守は看破したのである。</p>

<p>　柳生新陰流の「活人剣」は、この「性自然」と「転」という２つの理念を要においている。</p>

<p>　では、ここで新陰流「活人剣」の奥義を整理しておこう。</p>

<p>　新陰流の「活人剣」は、相対する２つの存在がぶつかり合う「斬り相い空間」において、まず、「相手」と「自分」の関係を見極め、「相手」を先に働かせて、相手の「転」（まろばし）を活かして、これを活用するかたちで、「一瞬の時間差」を利用して、後から「相手」に打ちかかり、迷わず、自らの《 人中路 》（自らの身体の中心を貫くライン）を真っ直ぐ、一刀両段に、斬り下ろせば、「相手」の太刀の上に乗るかたちで、必ず勝ちを治めることができる、というものだ。</p>

<p>一言でいえば、《 「後手必勝」の剣法 》ということができる。</p>

<p>　要するに、活人剣においては、こちらのシナリオに沿って相手を動かし、斬り相う前から、こちらが主導権をとり、相手が「勝てる」と思ってどう斬ってくるかを予測して、待ち構えて、これに打ち勝つのである。</p>

<p><strong>柳生新陰流剣法の<br />
「後手必勝」の数理</strong></p>

<p>　では、後から打ってなぜ勝てるのか。</p>

<p>　新陰流の剣法では、先に働かせ斬ってきた相手に対し、後から打ちかかって、相手の太刀に乗って勝つ、という。普通に考えると、先に動いた方が有利で、それを見てあとから動くと、この「一瞬の時間差」で斬られてしまうはずだ。</p>

<p>　実は、「斬り相い空間」における、このほんの僅かな「一瞬の時間差」に、新陰流秘伝の「後手必勝」の数理が働くのである。</p>

<p><a href="http://www.tessyuu.jp/archives/003.jpg"><img alt="003.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/003-thumb.jpg" width="138" height="150" /></a></p>

<p><br />
<a href="http://www.tessyuu.jp/archives/002.jpg"><img alt="002.jpg" src="http://www.tessyuu.jp/archives/002-thumb.jpg" width="139" height="150" /></a><br />
<strong></p>

<p>（事務局からお詫び）<br />
（数式部分が正しく表示できないため、該当部分をスキャンして掲載いたしました。見難いとは存じますがよろしくお願いいたします）</p>

<p>「生きる」とは<br />
どういうことか</strong></p>

<p>　生きものが「生きる」ということは、このe（時間軸）とπ（パイ・空間軸）の回転スピードの「一瞬の時間差」を利用して、「自分」のいのちを、「敵」から守ることなのだ。</p>

<p>　生き続けるには、《３つの条件》を満たす必要がある。</p>

<p>１、敵の「転」を観て、その働きを予測する。<br />
２、敵の「転」に、臨機応変に応じ、その働きを封じる。<br />
３、そのためには、普段の「習い」「稽古」「工夫」を欠かさない。</p>

<p>　「生きる」こととは、生存価値の善・悪・正・邪以前に、この世の自然の摂理に従うことであり、生きる価値は、生き続けること自体にある。</p>

<p>　野生のライオンはシマウマを食べて生きている。追われるシマウマは、ライオンから、１５%の時間軸上のハンディキャップを使って逃げ切ることにより、食われない確率が五分五分になる。だから、シマウマは絶滅しない。</p>

<p>　生きものが自らの生存リスクを察知して、十分注意深かければ、この世の中で生き続けられる理由が、まさにここにあるのだ。</p>

<p>                                                                                                                         以　上　　　　　　</p>

<p>　この内容についてお問い合わせは北川宏廸氏hirom-ki@js4.so-net.ne.jp<br />
　又は山岡鉄舟研究会info@tessyuu.jpにお願いいたします。</p>

<p>（参考文献）</p>

<p>１、「英傑　巨人を語る」（勝海舟/評論、高橋泥舟/校閲、安部正人/編、日本出版放送企画発行、１９９０年）</p>

<p>２、「負けない奥義───柳生新陰流宗家が教える最強の心身術」（柳生耕一平厳信著、ソフトバンク新書161、２０１１年）</p>

<p>３、「五輪書」（宮本武蔵著、佐藤正英 校注・訳、ちくま学芸文庫、２００９年）</p>

<p>４、「宮本武蔵　剣と思想」（前田英樹著、ちくま文庫、２００９年）</p>

<p>５、「博士の愛した数式」（小川洋子著、新潮文庫、２００５年）</p>]]>
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